ニュース 2018.07.11. 13:09

誰も期待していなかった浪速高校野球部の監督に

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浪速高校の野球部は、監督はいましたが生活指導が多忙で、外部から来た教員ではないOBの方が指導をしていました。そういう状況だったので、さっそく夏から監督をすることになりました。
当時の浪速高校は、前年は公式戦0勝。いい選手はいませんでした。入部してもやめていく生徒が多かったんです。

弱いのに生意気にも上下関係だけは厳しかったのです。4月に野球部の指導を始めてすぐにそれが分かりました。

当時の野球部は夕方6時には練習が終わるのですが、上級生がだらだら帰り支度をしている間、下級生は帰宅することができなかったのです。

それがわかったので、私は即座に1年生に「先に帰れ」と言いました。上級生も下級生が先に帰ってしまえば面白くないから、早く帰るようになりました。

こういう感じで野球部の風通しが良くなったこともあって、春の大会は2勝。夏も2勝しました。
そもそもこれまでは練習も試合も我流でやっていたので、基礎を徹底して教えました。投手にも最初のうちはベンチから配球のサインを出しました。こうして段々に強くなっていったのです。

副校長先生が「早く帰れ」と言わなくなった

私と一緒に浪速高校に入ってきた1年生が3年になった1982年夏にベスト8になりました。当時大阪府大会で2連覇していた北陽に負けました。

当時まで、学校は野球には全く関心がありませんでした。浪速高校と言えば赤井英和選手を輩出したボクシングと弓道、他のクラブはとにかく「早く終わって帰りなさい」。
午後6時がクラブの終わる時間、遅くまでやっていると副校長先生から「小林君、あかんで、早く生徒を帰しなさい」と言われました。

でも、3年目にベスト8になってからは、早く帰りなさいとは言われなくなりました。

1983年には楽しみな子が入ってきて、今年は、と思ったのですが、ちょうどこの年が、PL学園に桑田真澄、清原和博が入った年に当たりました。彼らが1年の夏に全国優勝したときに、私はテレビ観戦していて、あまりの実力差にショックを受けました。

でもそこから頑張って、1985年、彼らが3年の大阪府大会ではPL学園と当たって10-5と善戦しました。桑田真澄投手から5点も奪ったのは、大阪府大会、甲子園を通じてうちだけです。
もちろん、作戦を授けました。

「まっすぐか、カーブか、ボールを打つときに見極めようとしてもバットには当たらない。桑田の手から球が離れた瞬間にバットを出せ」と言ったんです。

桑田投手はコントロールがいいから、ストライクゾーンに球が来る。それを打て、と。

10-5と大善戦をして、日生球場でも拍手が沸きました。

結局、甲子園には行けなかったけど「これかな」と言うものをつかみかけた気がしました。

でも、甲子園出場は、私が浪速高校の監督になって12年目まで待たなければなりませんでした。
(取材:広尾晃)

第4回「メンタルトレーニングで、12年目にして甲子園に出場」へ続きます。



(取材・写真:広尾晃)

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