91年のセンバツは1回戦で市川(山梨)に1-3で負けました。そして次の甲子園まで、また10年待たなければなりませんでした。
でも、この10年間は、私の指導法が大幅にバージョンアップした期間でもありました。
メンタルトレーニングに加え、スポーツビジョントレーニング、コーディネーショントレーニング(バランス感覚や運動能力の向上)、ウエィトトレーニングを廃止して体幹を中心とした身体を合理的に動かすトレーニングなどを導入しました。
浪速高校は、専用のグランドはありません。練習時間も、場所も、限りがありました。グランドの隅で体を動かすだけの日もありました。
でも、その環境で、甲子園に出られないまでも強豪校の一角をしめていたのです。
10年後の2001年、もう一度春の甲子園に出場しました。このときは2回戦で福井商(福井)に7-6で勝ち、3回戦は小松島(徳島)を2-1で破り、準々決勝まで進みましたが、宜野座(沖縄)に延長11回、2-4で負けました。
この時の中心選手が、今、ヤクルトでプレーする大引啓次です。彼は高校生のときから精神的に安定した立派な人物でした。大引は法政大学に進んで活躍しましたが、キューバで世界大学選手権があったときに、前回優勝のアメリカの選手が選手宣誓をするはずだったのが、キューバとアメリカに国交がないということで、前日になって大引に選手宣誓のお鉢が回ってきました。でも大引は慌てることなく、翌日、英語で堂々と選手宣誓しました。彼はそういう奴なんです。私は常日頃から選手に「野球だけじゃだめだぞ、勉強もしないと」と言っていましたが、それが役に立ったようです。
大阪府には、何度も全国優勝するような強豪校がひしめいています。そういう学校に比べれば、大きな実績とは言えませんが、大阪府大会では強豪校の一角として毎年善戦していました。
1年契約の非常勤講師として浪速高校に入ってから28年。野球で名前が知られるようになっても、私は有望な中学生をスカウトしたりはしませんでした。公立を落ちたり、自分で浪速高校を選んだりしてやってきた子供たちで野球をしました。彼らの可能性を伸ばすことで、浪速高校の実績を積み上げてきました。それは野球を通しての「教育」と「自分自身への挑戦」だったと思います。最初に赴任した中学の校長先生が言った通り、私は教職が天職だったのでしょう。
-小林氏は浪速高校監督を退任後、2009年から成美大学(現 福知山公立大学)で監督・部長を歴任。済美大学教授として教鞭も執る。現在は小林敬一良ベースボールアカデミーを主宰。今も野球少年を指導している。小林氏の指導の実際については、稿を改めて紹介する。(取材・広尾晃)
【第1回】「小さな体で甲子園に、当時から芽生えていた『指導者』への志」
【第2回】「荒れた中学校での非常勤講師が、野球指導者としての原点」
【第3回】「誰も期待していなかった浪速高校野球部の監督に」
【第4回】「メンタルトレーニングで、12年目にして甲子園に出場」
【第2回】「荒れた中学校での非常勤講師が、野球指導者としての原点」
【第3回】「誰も期待していなかった浪速高校野球部の監督に」
【第4回】「メンタルトレーニングで、12年目にして甲子園に出場」
(取材・写真:広尾晃)