白球つれづれ~第18回・たたき上げの指揮官~
球界に悲報が相次いでいる。先月28日に西武の投手コーチだった森慎二氏が多臓器不全のために急死。そのショックも冷めやらぬ7月1日には阪急、オリックス、日本ハムで名指揮官として大きな足跡を残してきた上田利治氏が肺炎のため亡くなった。
享年80歳。監督通算1322勝1136敗116分け、勝利数は歴代7位で鶴岡一人(南海)三原脩(西鉄等)水原茂(巨人等)川上哲治(巨人)ら伝説の名将と比べても遜色ない。2003年には野球殿堂入り、その受賞理由は「熱血指導で阪急を常勝チームに」とある。
個人的にも監督時代やスポニチの評論家時代に野球の奥深さを学んだ。厳しさと優しさの同居する根っからの野球人である。
厳しさと優しさと
上田の死去に際して多くの教え子たちが哀悼のコメントを寄せている。山田久志、福本豊、加藤秀司や山口高志、佐藤義則らの阪急組から田中幸雄、金子誠、岩本勉、小笠原道大らの日本ハム勢まで多士済々だ。中でも印象的だった現オリックス投手コーチ・星野伸之の言葉を引用する。
「(キャンプでの)投内連係でもピリピリと緊張感がすごかった。打たれても、打たれても使ってくれ、自分を育ててくれた」
最近のキャンプを見ていると投内連係でミスが出ても笑い声が聞こえるケースがしばしば。指揮官が一つのミスに怒声を発するのだからチームは高いレベルで引き締まる。この厳しさはシーズン中も容赦ない。試合中に不甲斐ないプレーをした選手を叱る声が相手ベンチまで聞こえてきたというから半端じゃない。
一方で、この指揮官のもう一つの特徴は辛抱強く若手を育てたこと。「あいつはええで、ホンマにええで」とマスコミを通じておだてることも忘れない。いつしか、「上さんのええで節」として球界に定着した。
名将たる所以
リーグ優勝5度のうち1975年から77年まで日本シリーズ3連覇の金字塔。阪急の前監督である西本幸雄は大毎(現ロッテ)近鉄(現オリックス)を含めて計8度のリーグ優勝を記録しながら日本一には到達できなかった悲運の将。そんな恩師の悔しさを晴らし、88年には阪急の身売りと新球団・オリックスの初代監督という難しい立場も経験した。
華やかな監督歴に比べて、上田には語るべき現役時代の数字がない。だが、これこそが誇るべき経歴なのだ。
プロのスタートは1959年に捕手として入団した広島で切った。しかし、早々に肩を痛め3年で現役引退を決断する。この間の成績は121試合に出場して打率.218、本塁打2、打点17。普通なら「お払い箱」の扱いでもおかしくないが、並外れた野球への情熱と研究熱心な姿勢を球団に評価されて25歳で二軍コーチとして指導者の道が開ける。史上最年少のコーチ誕生だった。
現役時代のキャンプには何と「六法全書」を持ち込み練習の合間を縫って読書に勤しんだという伝説がある。大学時代は弁護士志望でもあった勉強家。明晰な頭脳がその後の指導者生活に生かされたのは想像に難くない。
監督選びも新たな時代へ
情熱と厳しさと愛情とそして知力。さらにぶれない信念も優秀な指導者には必要な要件である。
野球界は長い間、実績と経験が価値判断を支配してきた。監督やコーチの大半は現役時代にそのチームを代表するような活躍を見せてきた者が選ばれるのが常識とされてきた。今でも12球団監督の顔ぶれを見ればほぼこの範疇にいる。
日本ハムの栗山英樹が最も上田に近い経歴かも知れないが彼にはスポーツキャスターとしての華やかな人気があった。実績はなくともファームで勉強し、やがてコーチとして力量を認められて一軍監督として名将まで上り詰めたのは上田しかいない。
メジャーリーグではこうした人材育成法が珍しくない。むしろ指揮官の多くは2Aや3Aのコーチなどを経験してチャンスをつかんでいく。日本の場合、監督はチームの看板で人気面の貢献まで求められる。しかし、チームを強くすれば人気も出てくるのも確か。
日本球界も、上田の死を悲しむだけでなく彼のような人材が意外なところに埋もれていないか?振り返ってもいい。スター監督だけを求める時代は終わっている。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)