スタートラインに立てない苦しみ
歯車は精密で繊細だ。順調だった事柄が、ちょっとした出来事をキッカケに狂い始め、いつの間にか取り返しのつかない事態に発展していく。
2011年、高校3年生の夏、最後の神奈川県大会。県立茅ヶ崎西浜高校のエースだった古村徹は、この頃すでに左肩を痛めていた。「寝返りをうって痛くて起きる」ほどの痛み。歯車はこの時点でおかしな動きを見せていた。
その年の“TBS体制最後のドラフト会議”。古村は将来性を買われ、地元・横浜ベイスターズから8位指名を受け、プロの門を叩いた。しかし肩の痛みは消えることはなかった。筋トレなどで必死の完治を試みるも、二軍で登板することすらなく、その年のオフには育成契約に切り替えられる。
いつ首になるかわからない。しかし、「肩が痛いなんて言えなかった」と当時を振り返る。翌年は実戦で初めてマウンドに登ったが、2014年は登板機会を得られないまま、無念の自由契約となった。
「プロに入ってから一度も全力で投げたことはありませんでした」。辛く切ない現役生活にピリオドが打たれた。
プレッシャーからの解放
2015年からはバッティングピッチャーとして、第二の野球人生を歩むことになった。そして、アップもせずにキャッチボールの相手を務めていると、あの痛みがまるで嘘だったかのように消えていた。
悲鳴をあげ続ける左肩、同期や後輩の活躍、常につきまとう契約解除の影…過度のプレッシャーを心に抱え続けた結果、「傷口を広げてしまっていた」と古村は回顧する。噛み合わない歯車がメンタルにも暗い影を落とし、それが身体にも影響を及ぼす悪循環に陥っていた。
バッティングピッチャーでは痛みを感じることなく投げることができた。通常の投球間隔よりも7メートル短い「11メートル」という距離で。強度を落としてピッチングできたことが、適度なリハビリになったのかもしれない。遠投では80メートルから100メートルまで飛距離が伸びた。不安要素がクリアになると、止まりそうになっていた歯車が徐々に動き始める。
独立リーグで現役復帰
全力で野球ができる喜びを胸に、古村は2016年、独立リーグながらも現役復帰を果たす。
目標はもちろん、NPBへの復帰。そのために厳しいトレーニングを自らに課した。量も質も昨年の約2倍、ハードな課題を黙々とこなし続けた。2年目からは、高校時代に使っていた、加圧トレーニング機器も実家の引き出しから引っ張り出した。
その後、フォームの変更など紆余曲折はあったものの、人並み外れた努力の甲斐もあり結果が出始める。四国アイランドリーグの愛媛で2年、昨年はBCリーグの富山GRNサンダーバーズで鍛錬を重ね、ストレートのスピードは遂に150キロを計測するまでになった。
すると150キロを出す左腕の元に、NPBサイドが興味を示した。最初は3球団が訪れ、最終的には6球団に。最初の3球団の中には古巣のベイスターズも含まれていた。そして思い出の地、横須賀長浦のベイスターズ球場で行われたテストを経て、前代未聞の出戻り再入団が決まった。
漲る自信
「(球種は)ストレート、スライダー、カットボール、フォークボールです。どれも自信があります」
キッパリと言いきった古村だが、自分の立ち位置は理解している。「BCリーグでは抑えていましたが、しょせん井の中の蛙。レベルの全く違うところで、自分のレベルを知りたい」と、至って冷静だ。
そして、「今までは(肩の故障で)マイナススタートだったが、今はやっとフラットな立場でこの舞台に立てた。不安よりもワクワクの方が強い。対戦して課題が見つかれば、それを克服すればいい。自分はまだまだ成長しますよ」と、目を輝かせながら来季を見据える。
富山ではセットアッパーとして活躍した。ベイスターズでも同じポジションを狙う。「お世話になった大原慎司さんのようになりたい」と、入団1年目から71試合に登板した鉄腕左腕を目標に挙げ、「勝利の方程式に入って、カムバック賞狙いたい」と続ける。
正常に動き始めた歯車が、横浜の地で止まっていた時計の針を、再び動かそうとしている。
取材・文=萩原孝弘(はぎわら・たかひろ)