『男たちの挽歌』第5幕:水野雄仁
昭和が終わる頃、江川卓のあとに「巨人のエース」を期待された投手がいた。
池田高校時代に甲子園の夏春連覇で一躍スターとなった水野雄仁である。4番エースで鳴らした“阿波の金太郎”は、巨人が83年のドラフト1位で指名。世代的には槙原寛己(81年1位)が2つ上、斎藤雅樹(82年1位)は1年先輩、そして高3夏に甲子園でホームランを打たれた桑田真澄(85年1位)が2年後輩ということになる。
つまり、あの三本柱に挟まれたドラ1投手。だが、水野は入団時の注目度では槙原や斎藤よりはるかに上で、背番号は当時のエース江川の30番のひとつあと「31番」を与えられたほどだ。
ゴールデンルーキー金太郎人気は凄まじく、84年(昭和59年)1月の自主トレには600人の多摩川ギャルが集結。アイドル雑誌の『週刊明星』でもその様子は報じられ、「顔はじゃがいもみたいだけど、バッターに向かっていくところが好き! 甘い男なんて大嫌い!」なんて褒めてるのかディスってるのかよく分からないギャルのコメントも掲載されている。
日本テレビ系のスポーツニュース『SS9』では背番号31の1年間密着を企画する力の入れ用で、キャンプ休日にデパートで買ったのは3280円の目覚まし時計、持ち込んだ本は『金持ちになる方法』全10巻……と、それを知ったところでリアクションが取りにくい凄まじい報道合戦が繰り広げられていた。
マウンド降りても強心臓ぶり
水野はその自由奔放な言動も話題で、自主トレで太りすぎを指摘されても「今日は身体が動かなかった? いやいや、そうゆう風に見せただけや! やるときはやりますよ! まだぼくは学生ですから、卒業するまでは、“お客さん”でいられますからね」と笑い飛ばす。
1年目、イースタン・リーグの試合では全力疾走を怠り、試合中に自軍二軍監督からベンチで三発もビンタを食らったことがニュースに。「ビンタ降って地固まる!?」とダジャレ記事でさらっと流される昭和ニッポンに驚愕するが、そう言えば、人気アニメ『機動戦士ガンダム』でもブライト艦長がグズるアムロ・レイを「それが甘ったれなんだ! 殴られもせずに一人前になった奴がどこにいるものか!」なんて意味不明なロジックでぶん殴るシーンがあった。
今となってはありえない無茶苦茶な時代だが、強心臓の水野は寮生活でもその行動力は図抜けていた。度々門限を破り、寮長に𠮟られ、罰金を食らい、写真週刊誌にも追い回され、外出禁止を命じられても負けじと自由への脱走を試みた阿波の金太郎の精神力はやはり凄い。
次代の三本柱も…
さて肝心の野球の方では、2年目のグアムキャンプで先輩たちの荷物を運んでいる際に、スーツケースが階段に引っ掛かり右肩を痛めてしまう不運な事故に見舞われてしまう。
思いのほか重症だったため、アメリカでジョーブ博士の手術を受け、そのシーズンはリハビリ生活。甲子園を沸かせた図抜けた打撃センスを生かし、バッターなら3割30本もいけると打者転向を勧める声もあったが、3年目の86年に復活して140キロ台中盤の速球と鋭く落ちるフォークを武器に一軍で8勝を挙げると(このシーズンは打率.250を記録)、87年にはキャリア初の10勝を記録する。
当時の『週刊ベースボール』では、19歳の桑田とふたりで30勝を狙う宣言も。西武との日本シリーズ第6戦の先発を託されるなど、88年あたりまで巨人の次代の三本柱といえば「桑田、水野、槙原」だった。
それが平成に入ると、伸び悩んでいた斎藤が2年連続20勝と“平成の大エース”として定着。水野は先発では結果を出せず、藤田元司監督が作り上げたチーム年間完投数70の超ハイレベルな巨人ローテ争いに敗れた。
ついでに鉄アレイを両足に落とすマンガのようなアクシデントにも悩まされるが、90年には34試合で11セーブを挙げ復活。そこからの背番号31はピンチに動じないマウンド度胸でリリーフ稼業に活路を見出す。
しかし、入団9年目の92年には右肘の軟骨除去手術を受け登板なし。93年には長嶋新監督のもとで43試合に投げカムバックするが、球速は130キロ台中盤まで落ち込み、95年終了時に30歳になっていた水野は若返りを図る球団からファームコーチ就任を打診される。
それを固辞して臨んだプロ13年目の96年は、10月6日中日戦の7回一死満塁の大ピンチで投入され、アロンゾ・パウエルを遊ゴロ併殺に打ち取りメイクミラクルに貢献するも、わずか10試合の登板。まだ31歳の若さで複数球団からのトレードの打診もあったが、水野は96年10月29日に岡崎郁とともに現役引退を発表する。
通算265試合、39勝29敗17S、防御率3.10。元甲子園のスーパースターでまだ巨人ブランドが圧倒的に強かった時代、翌97年の水野は複数の週刊誌で連載を持つ売れっ子の青年評論家として活動した。
本当の「最後の1年」
さて、この連載はあらゆる選手の現役『最後の1年』に注目する企画だが、水野の場合はそのラストイヤーの定義が難しい。なんと巨人引退翌年の秋にドミニカのウインターリーグに参加しているのである。
『週刊宝石』での連載『球界の金太郎』によると、評論家として食うには困らない稼ぎはあったが、ネット裏から自分より年上の選手たちのプレー(例えば広島の42歳サウスポー大野豊)を見るにつけ、「俺は解説なんてしていていいのだろうか。35か40になったときに、あのときもう少し野球をやっときゃよかったなんて後悔しないのか?」と自問自答の果てに下したひとつの決断。
引退直後、当初は体重維持のために軽い気持ちで始めたトレーニングだったが、自身が肩やヒジの手術経験があるため、リハビリや運動生理学の勉強もしようと次第に本格的なハードトレーニングに取り組んだという。
暇があればジャイアンツ球場でファームの打撃投手も務め、10月に入ると巨人代表に相談し、「任意引退選手」としてコミッショナーに届け出ていたものを「自由契約選手」にする手続きをしてもらう。
迎えた97年11月10日、32歳の水野はドミニカ共和国のサント・ドミンゴ国際空港に到着。解説を務めていたフジテレビ『プロ野球ニュース』の番組を上げたバックアップもあり、トロス・デル・エスタというチームで再びマウンドへ。
今ではオフのドミニカ武者修行もよく聞くが、当時は日本人投手が来るのはほとんど初めてで現地でも話題になった。ドミニカでは計10試合(先発3、リリーフ7)30イニングを投げ、1勝1敗、防御率3.68(正確な数字は本人も分からないという)。
翌98年2月13日、水野は米アリゾナ州でサンディエゴ・パドレスのスプリングキャンプに参加する。もちろん日本ではその挑戦に否定的な意見もあり、ヤクルトの野村克也監督は例の調子で「レベルの高い大リーグのイメージを壊さないでほしい」なんてボヤいてみせたが、金太郎は持ち前のガッツで己が決めた道を邁進する。
59番のユニフォームに袖を通したオールドルーキーは、オープン戦で全盛期バリバリのケン・グリフィーJr(マリナーズ)を打ち取りアピールするが、3登板で6被安打の内4本がホームラン。メジャーのパワーに戸惑い、3月11日に戦力外通告を受ける。直後にダイヤモンドバックスの入団テストにチャレンジするも不合格。完全燃焼した水野雄仁の「最後の1年」はここで終わりを告げた。
若手時代、野球メモをまとめたデータ整理用に当時はまだ珍しいパソコン導入に興味を示す好奇心の持ち主で、時に生意気と叩かれた物怖じしないメンタルは伊達じゃなかった。ドミニカやアメリカで貴重な体験をした水野は日本へ帰り、98年秋にジャイアンツ投手コーチ就任で古巣復帰を果たす。
そして同じく、その年に野手総合コーチとしてついに巨人へ戻ったのが、40歳の原辰徳である。
(次回、原辰徳編へ続く)
▼ 水野の主要部門投手成績
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)