コラム

甲子園のアイドルから悪役に、そして野球の求道者へ【桑田真澄・最後の1年】

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イースタン・リーグの湘南戦で観客席のファンの応援を背に投球する巨人の桑田真澄投手=2006年9月24日午後、川崎市のジャイアンツ球場

『男たちの挽歌』第13幕:桑田真澄


 甲子園の優勝投手から19歳で沢村賞投手へ。


 かつてこんな完璧な10代のキャリアを歩んだ野球選手がいた。巨人の桑田真澄である。PL学園時代は甲子園でエースとして通算20勝3敗、1年夏と3年夏に全国優勝。2年春、2年夏も準優勝。3年春はベスト4。歴代1位の13本塁打をかっ飛ばした清原和博とともに“KKコンビ”はあの頃の野球少年たちの憧れだった。

 だが、85年ドラフト会議がふたりの運命を切り裂く。6球団の1位入札があり西武が交渉権獲得するも希望の巨人からは指名されずに悔し涙を流した清原、早稲田大学進学を表明しながらもその巨人から単独1位指名を受けた桑田(のちに桑田はドラフト当日に西武、ヤクルト、ロッテが1位指名でいくと電話をかけてきたと明かしている)。

 進学を取りやめ、巨人の背番号18を背負った18歳に対する当時のバッシングは凄まじく、今の若い野球ファンには信じられないかもしれないが「正義の清原、悪役の桑田」というアングルが定着してしまう。


ギラギラした高卒ルーキー


 そう、この桑田ほど世代ごとに印象が異なるプロ野球選手も珍しい。名選手の現役最後の1年を振り返る本連載でも、若手時代と現役晩年のイメージがこれだけ違う選手は他にいない。

 30代以下の世代は元巨人の中心選手で今はロジカルな解説の野球博士のイメージが強いだろうが、40代以上の野球ファンには若かりし頃の図太いダーティーヒーローの印象が強烈だ。怪物・江川に変わる球界のヒールキャラは、ルーキーイヤーに10歳以上年上の岡田彰布(阪神)の内角を抉り「内角球を投げちゃいかんという法律でもあるんですか」なんてギラギラしたコメントを残している。

 生意気だ暗いと、どんなに叩かれようが俺は野球で結果を残してみせる。174センチの小さな身体でボールに向かって何やら呟き、大人の世界で我が道を行く太々しさはアイドル・キヨマーとはまた違った魅力があった。

 周囲の厳しい目にさらされながらも、2年目の87年には15勝を挙げ、最優秀防御率と沢村賞を獲得。桑田は4月1日の早生まれのため(1日でも遅かったら清原の1学年下になっていた)、19歳の沢村賞投手が誕生した。

 プロ3年目あたりから直球は150キロを計測するようになり、カーブやスライダーに加え、決め球のサンダーボールことSFFも話題に。桑田をきっかけにスプリットフィンガー・ファストボールという球種を覚えた野球ファンは多い。

 その球の出どころが分かりにくいしなやかな投球フォームは、アニメ『タッチ』の主人公・上杉達也のモデルになっている。80年代の野球少年にとって背番号18は特別で、あの松坂大輔も少年時代の憧れは桑田だった。


孤独な孤高の18番


 平成に突入した89年には年間20完投にリーグ最多の249イニングと投げまくり、キャリアハイの17勝を記録。時はバブル景気真っ只中、若きスター選手の周りにはカネ目当てに怪しいバブル紳士たちが群がった。

 野球しか知らない若者はいいカモだったのだろう。やがて桑田も“投げる不動産屋”と揶揄されるようになり、週刊誌では数多くの女性スキャンダルが書き立てられ、運動用品メーカーの元社員が書いた暴露本で登板日漏洩や金品授受問題にも巻き込まれてしまう。

 この不祥事に当初は1年間の出場停止が検討されるも藤田元司監督が間に入り、開幕から1かカ月の謹慎期間で迎えた90年シーズンは、復帰後いきなり2試合連続完封と並外れた精神力の強さを見せつける。お騒がせの一方で、あらゆる最新トレーニング方法やサプリメントを試して野球日記を綴る求道者的な一面もあった。

 『週刊文春』94年11月17日号の阿川佐和子との対談で「ジャイアンツの中で、仲が良いとか、気が合うのはどなたですか?」と聞かれ、桑田はこう答えている。

 「チームには誰もいないです。まだ、心を打ち明けられるような親友は一人もいないです。早く親友欲しいなあと思ってますけどね。目指してるものが違うんです。みんなタバコ吸うから、それが一番のネックなんです」

 18番は孤独であり、孤高だった。87年から6年連続二桁勝利、94年には14勝であの中日との“10.8決戦”の胴上げ投手となり自身初のMVPを獲得。野茂英雄が渡米したのは95年春だが、同時期に桑田のもとにもサンフランシスコ・ジャイアンツから身分照会がくるなど、20代中盤の全盛期を迎えていた右腕にメジャー関係者も注目していた。

 ヤンキースは読売新聞東京本社が肩代わりしていた桑田の十数億円の借金も、仮に複数年契約が結べるならそれくらい問題なしという報道が出たくらいだ。


立ちはだかる試練と復活劇、そして…


 ところが、95年5月24日の阪神戦でファウルフライをキャッチしようとダイビングし、古傷がある右ヒジを東京ドームの固い人工芝に強打。この試合以降、桑田は長期離脱したイメージが強いが、当初は右肘の関節炎という診断で6月には一軍で2試合に先発登板している。

 しかし、違和感が消えず夏にアメリカでジョーブ博士の診断を受け、右肘靱帯断裂でトミー・ジョン手術へ……。そして長いリハビリを経て、97年4月6日、野村ヤクルト相手に661日ぶりの一軍復帰登板を勝利で飾ると、お立ち台にはFA移籍後初アーチを放った清原と上がった。

 ようやくプロでも揃い踏みしたKKコンビだが、10代のナイフみたいに尖った沢村賞投手は、ピアノを弾きワインを嗜む大人の男へと変貌していた。若手には自ら声をかけ、捕手の小田幸平は自著の中でプロ入り間もない頃、「君、キャッチングがいいね。体は大きいし、構え方もいい。古田さんに似ているよ。これから頑張れよ」と桑田から褒められたことを嬉しそうに回想している。

 本業の方では99年から不振に陥りリリーフに回ることも増え、2000年のONシリーズでは敗戦処理のような役割を与えられる。三本柱でともに一時代を築いた斎藤雅樹や槙原寛己も引退し、これで桑田も終わりか……と思われた02年、34歳の背番号18は原辰徳新監督のもとで4年ぶりの二桁勝利と15年ぶりの最優秀防御率(2.22)のタイトルに輝く。

 ちなみに「代打・桑田」が話題になったこの年は、51打数15安打の打率.294、1本塁打、9打点、OPS.798という二刀流レベルの打撃成績を残した。だが、翌年以降は再び低迷。05年は0勝7敗、防御率7.25で未勝利に終わり、ついに06年の「最後の1年」を迎えるわけだ。


巨人との別れと新たな挑戦


 4月13日の広島戦で600日ぶりの勝利投手となり通算173勝目を挙げるも、同29日に右足首捻挫で登録抹消。その後は一軍で声が掛かることはなく事実上の構想外だったが、38歳の元エースは9月23日、球団公式ページ内の自身のコーナーで「お別れ」と題した声明文をアップする。

「このページも、2000年から続けてきたけれど、今年でお別れになると思うし、何より、明日、ジャイアンツのユニホームでマウンドに立つのは、おそらく最後になるだろう。21年間、大きく育てていただいた、ジャイアンツに心より感謝している」

 この突然の行動に原監督も「俺は信じられない。嘘だと思うよ」なんつって絶句。迎えた24日のイースタン・リーグ湘南戦、二軍戦では異例の3495人の大観衆を集め、客席のいたるところで18番ユニホームや東京ドームのライトスタンドと同じ横断幕が掲げられる中で先発マウンドへ上がった桑田は、5点を失いながら7回まで投げ続ける。試合後はスタンドで長蛇の列を作ったファン一人ひとりと握手をして21年間の感謝を示した。

 そして、11月のファン感謝デーでYGマークに別れを告げ、桑田は海を渡るのである。ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約。07年3月のオープン戦でベースカバーに入った際に審判と激突するアクシデントに見舞われ右足首靱帯断裂を負うもマイナーで調整を続け、6月9日にメジャー昇格。インディアナポリスからヤンキース戦のあるニューヨークへ移動すると、マイナーでは52番や25番だった背番号は、慣れ親しんだ18番が与えられた。

 6月10日、ヤンキースタジアムで6対8とリードされた5回裏に3番手として登板。その回は三者凡退に抑えるも、6回にアレックス・ロドリゲスに2ランを浴び、巨人の後輩・松井秀喜との対戦は四球に終わる。

 39歳のオールドルーキーは、6月21日にはマリナーズのイチローと対戦すると、113キロのカーブで三振を奪う。8月14日に戦力外通告を受けるが、19試合で0勝1敗、防御率9.43という成績だった。


もうひとつの最後の1年


 08年の年が明け再度パイレーツとマイナー契約を結び、オープン戦では好投するも、40歳を目前にした投手に対して現実は厳しい。桑田の著書『心の野球』(幻冬舎)によると、ニールGMから呼び出され、「正直、右足首を手術したと聞いてから、ここまでやってくれるとは思っていなかった。でも、若手に譲ってあげてほしい。マイナーで結果を残しても、メジャーに上がる可能性はないんだ」と告げられ、その瞬間、よくやったなもういいよ……と頭の中でふと声が聞こえたという。

 2008年3月26日、ついに現役引退を公表。桑田真澄の最後の1年は今度こそ終わりを告げたのである。

 投げて、守って、打つ。そのすべてを高いレベルでやり続けた野球の申し子。そう、桑田真澄の魅力はガチンコである。野球も、人間関係も、時にスキャンダルも生々しくリアルだった。心の野球、とどのつまり感情を、己の生き様を乗せた野球は、ファンの心に響いた。

 さて、この桑田より10年以上前にロサンゼルスのジョーブ博士を訪ね、右肘にメスを入れた男がいた。“昭和生まれの明治男”ことロッテの村田兆治である。

(次回、村田兆治編へ続く)



文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)
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