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プロ野球のオープン戦がいよいよ22日にスタートする。初日は合計5試合が予定されているが、新監督同士がぶつかり合う「阪神対楽天」は中でもファン注目の一戦だろう。
特に明治大出身のルーキー宗山塁には楽天ファン以外からも熱い視線が注がれそうだ。昨秋のドラフト会議で5球団が競合した「大学生ナンバーワン遊撃手」だけに、多くの報道陣が詰めかけるのは間違いない。
1年目から遊撃のレギュラー定着が期待されている宗山だが、その前に大きく立ちはだかる選手がいる。宗山の5学年上にあたる村林一輝だ。
村林は、2015年のドラフトで7位に指名され楽天に入団。プロ入り当初の期待値は“20年に一人”の逸材・宗山とは対照的だったといえるだろう。ところが、一軍と二軍を行き来する長い下積みを経て、9年目にして遊撃のレギュラーをつかみ取った。
昨季はそれまでの自己ベストを大きく更新する139試合に出場。打率は.241ながら、6本塁打、50打点を記録した。もともと守備力には定評があったが、打撃面で大きな成長を遂げ、背番号も「66」から「6」へ。やや遅咲きの中堅にようやく春がやってきた。
しかし、そんな村林の前に現れたのが、プロ野球の将来を背負って立つとまで言われるスター候補。楽天の首脳陣は2人に遊撃のポジションを競わせる方針を示していたが、練習試合などでの起用法を見る限り、少なくとも開幕時は宗山を遊撃スタメンに抜擢し、村林を二塁か三塁に回す可能性が高いだろう。
そんな2人の状況を見て、21年前の阪神を思い出すファンも少なくないかもしれない。
2003年秋のドラフト会議で、阪神は鳥谷敬を自由獲得枠で早稲田大から獲得。その鳥谷と正遊撃手の座を争ったのが、社会人出身の当時4年目、26歳の藤本敦士である。
藤本は、プロ3年目の前年に初めて規定打席に到達すると、打率を3割(.301)に乗せ、18年ぶりとなるチームの優勝に貢献。ライバル球団からは「恐怖の8番打者」と恐れられた。
一方の鳥谷は早大入学直後から正遊撃手の座に就き、2年春に三冠王を達成するなどエリート街道を歩んできた、まさに“20年に一人の逸材”だった。
春季キャンプからオープン戦にかけて2人は激しいバトルを繰り広げたが、遊撃手として開幕スタメンを勝ち取ったのは鳥谷の方だった。
当時、阪神の指揮官を務めていたのは、鳥谷の大学の大先輩にあたる岡田彰布新監督。後輩の鳥谷を「ショートでどんどん使う」という発言を“えこひいき”と受け取ったファンもいたのか、球団には抗議の電話が殺到したという。
一方で、鳥谷のファンとみられる人物からは、藤本の実家に脅迫状が届いたという報道もあった。熱を帯びた2人のポジション争いはグラウンド外にも飛び火していた。
ただ、開幕スタメンに起用された鳥谷が一人勝ちだったわけではない。
オープン戦で高打率を残したにもかかわらず、開幕からベンチを温めていた藤本は、鳥谷の打撃不振もあり、開幕6試合目で遊撃スタメンの座を奪い返した。約1か月後には下位の打順から1~2番を任されるほど打撃は好調。そう簡単には鳥谷に屈しなかった。
一方の鳥谷は開幕6試合目からスタメンを外れると、その後は三塁手としての起用が増えた。しかし、シーズン終盤までに今度は鳥谷が正遊撃手の座をつかみ取ると、その年の9月から18年5月まで1939試合連続出場の偉業を達成した。
結果的にポジション争いに敗れた藤本だが、翌年には二塁手に転向。鳥谷と二遊間コンビを組むことになった。
その後、若手の台頭などもあり徐々に出場機会を減らした藤本は09年オフにヤクルトに移籍すると、13年いっぱいで現役を引退。1年間の評論家生活を経て、15年に二軍コーチとして古巣・阪神に復帰した。19年に一軍コーチとなったが、奇しくもその年が鳥谷の阪神ラストイヤーだった。
21年の時を経て、六大学出身のスター候補と、ドラフト7位からのたたき上げによる正遊撃手争いが楽天で勃発している。村林と宗山はそれぞれどんな道を歩むことになるのだろうか。
文=八木遊(やぎ・ゆう)
特に明治大出身のルーキー宗山塁には楽天ファン以外からも熱い視線が注がれそうだ。昨秋のドラフト会議で5球団が競合した「大学生ナンバーワン遊撃手」だけに、多くの報道陣が詰めかけるのは間違いない。
1年目から遊撃のレギュラー定着が期待されている宗山だが、その前に大きく立ちはだかる選手がいる。宗山の5学年上にあたる村林一輝だ。
村林は、2015年のドラフトで7位に指名され楽天に入団。プロ入り当初の期待値は“20年に一人”の逸材・宗山とは対照的だったといえるだろう。ところが、一軍と二軍を行き来する長い下積みを経て、9年目にして遊撃のレギュラーをつかみ取った。
昨季はそれまでの自己ベストを大きく更新する139試合に出場。打率は.241ながら、6本塁打、50打点を記録した。もともと守備力には定評があったが、打撃面で大きな成長を遂げ、背番号も「66」から「6」へ。やや遅咲きの中堅にようやく春がやってきた。
しかし、そんな村林の前に現れたのが、プロ野球の将来を背負って立つとまで言われるスター候補。楽天の首脳陣は2人に遊撃のポジションを競わせる方針を示していたが、練習試合などでの起用法を見る限り、少なくとも開幕時は宗山を遊撃スタメンに抜擢し、村林を二塁か三塁に回す可能性が高いだろう。
そんな2人の状況を見て、21年前の阪神を思い出すファンも少なくないかもしれない。
2003年秋のドラフト会議で、阪神は鳥谷敬を自由獲得枠で早稲田大から獲得。その鳥谷と正遊撃手の座を争ったのが、社会人出身の当時4年目、26歳の藤本敦士である。
藤本は、プロ3年目の前年に初めて規定打席に到達すると、打率を3割(.301)に乗せ、18年ぶりとなるチームの優勝に貢献。ライバル球団からは「恐怖の8番打者」と恐れられた。
一方の鳥谷は早大入学直後から正遊撃手の座に就き、2年春に三冠王を達成するなどエリート街道を歩んできた、まさに“20年に一人の逸材”だった。
春季キャンプからオープン戦にかけて2人は激しいバトルを繰り広げたが、遊撃手として開幕スタメンを勝ち取ったのは鳥谷の方だった。
当時、阪神の指揮官を務めていたのは、鳥谷の大学の大先輩にあたる岡田彰布新監督。後輩の鳥谷を「ショートでどんどん使う」という発言を“えこひいき”と受け取ったファンもいたのか、球団には抗議の電話が殺到したという。
一方で、鳥谷のファンとみられる人物からは、藤本の実家に脅迫状が届いたという報道もあった。熱を帯びた2人のポジション争いはグラウンド外にも飛び火していた。
ただ、開幕スタメンに起用された鳥谷が一人勝ちだったわけではない。
オープン戦で高打率を残したにもかかわらず、開幕からベンチを温めていた藤本は、鳥谷の打撃不振もあり、開幕6試合目で遊撃スタメンの座を奪い返した。約1か月後には下位の打順から1~2番を任されるほど打撃は好調。そう簡単には鳥谷に屈しなかった。
一方の鳥谷は開幕6試合目からスタメンを外れると、その後は三塁手としての起用が増えた。しかし、シーズン終盤までに今度は鳥谷が正遊撃手の座をつかみ取ると、その年の9月から18年5月まで1939試合連続出場の偉業を達成した。
結果的にポジション争いに敗れた藤本だが、翌年には二塁手に転向。鳥谷と二遊間コンビを組むことになった。
その後、若手の台頭などもあり徐々に出場機会を減らした藤本は09年オフにヤクルトに移籍すると、13年いっぱいで現役を引退。1年間の評論家生活を経て、15年に二軍コーチとして古巣・阪神に復帰した。19年に一軍コーチとなったが、奇しくもその年が鳥谷の阪神ラストイヤーだった。
21年の時を経て、六大学出身のスター候補と、ドラフト7位からのたたき上げによる正遊撃手争いが楽天で勃発している。村林と宗山はそれぞれどんな道を歩むことになるのだろうか。
文=八木遊(やぎ・ゆう)