野球は、まあまあ強かったですね。うれしかったのは、最初に教えた一年生が、全員、高校でも野球を続けたことです。実力もさることながら「野球好き」にさせることができたんです。
本来、非常勤講師は、授業を教えるだけで、会議にも出席せず、生活指導やクラブ活動の指導もしなくていいはずですが、体育祭が近づくと中学1年の全体練習では、私がマイクをもって指揮するようになりました。「みんな、並べー!」とやっていたら、学年主任から会議にも出てくれと言われるようになりました。
中学で教えているうちに、彼らが荒れるのも仕方がないと思うようになりました。
彼らの多くは東大阪の工場地帯に住んでいました。家庭訪問に行くと、工場の片隅に一家5人で住み込んでいる家もありました。工場は24時間稼働しているので、勉強なんかできない。子供は外へ行くしかない、悪いことを覚えもする。
私は裕福ではなかったですが、高校から私学に行くくらいですから比較的恵まれた境遇で育ちました。だからショックを受けました。
「こんなところにみんな住んでるんや」と思ったら、頭ごなしに叱るのではなく、彼らの境遇を理解するようになりました。生徒たちの心がわかるようになったのです。この中学校が、私の野球指導者としての原点ですね。野球がどうのよりも、教育者としての背骨を作ってもらった気がします。
非常勤講師の契約期限の2年目が、終わるころ校長先生に呼ばれたました。
私の実家は米屋で、母親が一人でやっていました。でも継ぐ気はなかった。とはいっても教師の口もありませんでした。
「どうする?」と校長先生に訊かれて「迷っているんです」と言うと、
「あなたの家業のお米屋さんの将来はわからないけども、教師と言う職業はあなたの天職と違うかな? 私はこれまでたくさん先生を見てるから、そう思う」と言われました。
それで決心がつき、高校野球の指導者を目指す気になったのです。
(取材:広尾晃)
第3回「誰も期待していなかった浪速高校野球部の監督に」へ続きます。
【第1回】「小さな体で甲子園に、当時から芽生えていた『指導者』への志」
【第2回】「荒れた中学校での非常勤講師が、野球指導者としての原点」
【第3回】「誰も期待していなかった浪速高校野球部の監督に」
【第4回】「メンタルトレーニングで、12年目にして甲子園に出場」
【第2回】「荒れた中学校での非常勤講師が、野球指導者としての原点」
【第3回】「誰も期待していなかった浪速高校野球部の監督に」
【第4回】「メンタルトレーニングで、12年目にして甲子園に出場」
(取材・写真:広尾晃)