2006年高校生ドラフト4巡目で横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に指名され、日本プロ野球界(NPB)で6年間を過ごした高森勇旗氏。24歳の若さで戦力外通告を受けるという憂き目も経験したが、引退後はアナリスト、ライター、企業のコーチング業など、活躍は多岐にわたる。今でも「5万人の大歓声を浴びるプロ野球選手は凄まじくかっこいい仕事」と認めつつも、「なりたいか?と言われたら、僕はもうなりたくない」と断言できる高森氏の成功の秘訣に迫る。
―― 高森さんは、2007年から2012年までプロ野球・横浜DeNAベイスターズでプレーなさっていました。高卒からの入団とはいえ、24歳での戦力外は「もう少しチャンスがあってもいいのでは?」とは思いませんでしたか?
いや、僕からするとかなりチャンスをもらったなと思っています。よく6年もやらせてもらったなというぐらい。捕手として入団して、一年で捕手をクビになり、 内野手をやって、外野手をやってとなったのですが、3年目に二軍でまぁまぁ結果が出て、4年目、5年目に全く結果が出なくて。その5年目でクビになるだろうと思っていたのですが、ならずに6年目も契約してもらったことがありがたいぐらいでした。
あれだけ練習して、あれだけやってダメなら、もう再来世まで無理だなと諦めがつきますよね。もう「本当にありがとうございました! やれることは全部やりました! 全く通用しませんでした!」という感じです。
―― とはいえ、3年目にはイースタン・リーグ(二軍戦)で打率3割0分9厘、15本塁打、112安打の好成績で、リーグ最多安打を獲得なさっています。手応えもあったのでは?
3年目にタイトルを取った時に、自分でも「4年目には確実に俺の時代が来る」と思っていましたし、球団もそれを期待してくれていたと思います。メディアからも取り上げられて注目もされていましたから。でも、その4年目に、後輩に筒香嘉智が高卒で入ってきて。左打ちの内野手ということで、全く同じキャラクターだったんです。となれば、球団は地元・横浜高校出身のピカピカのゴールデンルーキーの筒香を使いますよね。そこで、僕はチャンスがなくなったと思ってしまったんですね。今振り返ると、別にそんなことはなくて。筒香は筒香、僕は僕で、気にせずに淡々とやればよかったのですが、僕が勝手に対抗心を燃やしたり、勝手な被害妄想を抱いたりして、勝手に自分で腐っていったという感じです。
[写真=ご本人より提供]
―― 24歳の若さで戦力外通告を受け、すぐに野球界を離れる決意ができたのですか?
その4年目に不貞腐れていた時に、当時38歳だった佐伯貴弘さんという先輩がいて。その一軍のスーパースターで、チームの功労者だった佐伯さんが、チーム事情で二軍に行き、二軍でも僕よりも試合に出られないという状況でした。僕以上に言いたいことがたくさんあったはずなのに、佐伯さんは必ず毎朝6時半にグラウンドに来て、ずっとトレーニングしていたりして、まったく腐らないんですよ。淡々とやることをやって、試合では若手のバット引きに行ったり、ファウルボールを拾いに行ったりまでするんですよ。 そんな姿を見ても、当時の僕は完全に不貞腐れているので「関係ねえや」みたいな感じだったんです。その年、佐伯さんが戦力外になり、最後、二軍のファン感謝デーに参加して、ファンの前で泣きながら、「2010年は、佐伯貴弘にとって最高の年になりました」と言って辞めていったんです。その時、僕、涙が出てきてしまって。そこで、「俺は何を不貞腐れていたんだろうか」と気付かされたんです。
佐伯さんはその翌年、中日ドラゴンズに行って日本一になっていますからね。本当に、見ている人は見ている。野球の神様はいるなと思いました。そこで、「自分も心を入れ替えて頑張ろう」と思って、オフからすごく一生懸命頑張ってプロ5年目を迎えたのですが、一度切れた糸が簡単に戻るほどプロ野球は甘くありませんでした。
―― 素晴らしいお手本がいらっしゃったのですね。
もうひとり、呉本成徳さんという、僕がプロ2年目に二軍でレギュラーを取った前の年に、二軍で大活躍していた先輩がいたんです。僕は呉本さんからレギュラーを奪ったわけなのですが、呉本さんも決して文句を言いませんでした。その年、昇龍がごとく結果を出していった若手の僕に対して、呉本さんが最後、辞める時に「お前がもし何年後かに、俺みたいに二軍でも試合に出られなくてクビになっていく立場になったら、後輩に背中を見せられるような選手になれよ」と言われたんですよ。
そういういろいろな背中を見てきて、6年目、僕もいよいよそうなった時に、「呉本さんや佐伯さんのような背中を見せられるかどうかが、この一年間の俺の役割だ」と決意しました。なので、試合に使われないのはわかっていましたが、誰よりも早くグラウンドに行ってトレーニングをして、試合が終わったら(練習場のある)横須賀まで帰ってウエイトトレーニングをして、という日々を、誰に何を言われようがずっと続けていたんです。それで、僕は自分の中で、「やるべきことはやりきったし、後輩に背中を見せられたと思うので、もう辞めていいな」と思えました。
―― 野球界を離れ、突然、一般社会に出る不安はありませんでしたか?
僕の中で、プロ野球界で長く活躍している人たちの共通点みたいなものをなんとなく見ていたのですが、結局は『人間としての成熟度』かなと。それは、挨拶ができるとか、お礼が言えるとか、謝れるとか、約束を守るとか、本当に基本的なことだったりする。そういうことがきちんとできる選手というのは、例えば一軍で結果が出なかったり、怪我をしたりで二軍に落ちてしまった時にも、チーム全体がその選手の復帰をサポートして、「一日でも早く一軍に上げてあげよう」という力学がどんどん働いてるように見える。きっとそれはどの社会でも同じだと考えたら、僕はこの6年間、ものすごく濃い体験をしたという自信がありました。なので、24歳で社会に出ることになって、大学や大学院を経た人たちと同じ土俵に行ったとしても、「絶対に大丈夫だ」と勝手にアドバンテージを感じて、希望を持って社会に出ましたね。
そんなふうに考えられたのは、やはり、野球をやり切れたからでしょうね。いっさいの未練を残さなかったからこそ、切り替えやすかったというのはあるかもしれません。
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取材=上岡真里江
撮影=戸張亮平
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【後編】プロアスリートにとってセカンドキャリア以上に重要視されるべきは“サードキャリア”
―― 高森さんは、2007年から2012年までプロ野球・横浜DeNAベイスターズでプレーなさっていました。高卒からの入団とはいえ、24歳での戦力外は「もう少しチャンスがあってもいいのでは?」とは思いませんでしたか?
いや、僕からするとかなりチャンスをもらったなと思っています。よく6年もやらせてもらったなというぐらい。捕手として入団して、一年で捕手をクビになり、 内野手をやって、外野手をやってとなったのですが、3年目に二軍でまぁまぁ結果が出て、4年目、5年目に全く結果が出なくて。その5年目でクビになるだろうと思っていたのですが、ならずに6年目も契約してもらったことがありがたいぐらいでした。
あれだけ練習して、あれだけやってダメなら、もう再来世まで無理だなと諦めがつきますよね。もう「本当にありがとうございました! やれることは全部やりました! 全く通用しませんでした!」という感じです。
―― とはいえ、3年目にはイースタン・リーグ(二軍戦)で打率3割0分9厘、15本塁打、112安打の好成績で、リーグ最多安打を獲得なさっています。手応えもあったのでは?
3年目にタイトルを取った時に、自分でも「4年目には確実に俺の時代が来る」と思っていましたし、球団もそれを期待してくれていたと思います。メディアからも取り上げられて注目もされていましたから。でも、その4年目に、後輩に筒香嘉智が高卒で入ってきて。左打ちの内野手ということで、全く同じキャラクターだったんです。となれば、球団は地元・横浜高校出身のピカピカのゴールデンルーキーの筒香を使いますよね。そこで、僕はチャンスがなくなったと思ってしまったんですね。今振り返ると、別にそんなことはなくて。筒香は筒香、僕は僕で、気にせずに淡々とやればよかったのですが、僕が勝手に対抗心を燃やしたり、勝手な被害妄想を抱いたりして、勝手に自分で腐っていったという感じです。
[写真=ご本人より提供]
二人の恩人から教わった人間性の大切さ
―― 24歳の若さで戦力外通告を受け、すぐに野球界を離れる決意ができたのですか?
その4年目に不貞腐れていた時に、当時38歳だった佐伯貴弘さんという先輩がいて。その一軍のスーパースターで、チームの功労者だった佐伯さんが、チーム事情で二軍に行き、二軍でも僕よりも試合に出られないという状況でした。僕以上に言いたいことがたくさんあったはずなのに、佐伯さんは必ず毎朝6時半にグラウンドに来て、ずっとトレーニングしていたりして、まったく腐らないんですよ。淡々とやることをやって、試合では若手のバット引きに行ったり、ファウルボールを拾いに行ったりまでするんですよ。 そんな姿を見ても、当時の僕は完全に不貞腐れているので「関係ねえや」みたいな感じだったんです。その年、佐伯さんが戦力外になり、最後、二軍のファン感謝デーに参加して、ファンの前で泣きながら、「2010年は、佐伯貴弘にとって最高の年になりました」と言って辞めていったんです。その時、僕、涙が出てきてしまって。そこで、「俺は何を不貞腐れていたんだろうか」と気付かされたんです。
佐伯さんはその翌年、中日ドラゴンズに行って日本一になっていますからね。本当に、見ている人は見ている。野球の神様はいるなと思いました。そこで、「自分も心を入れ替えて頑張ろう」と思って、オフからすごく一生懸命頑張ってプロ5年目を迎えたのですが、一度切れた糸が簡単に戻るほどプロ野球は甘くありませんでした。
―― 素晴らしいお手本がいらっしゃったのですね。
もうひとり、呉本成徳さんという、僕がプロ2年目に二軍でレギュラーを取った前の年に、二軍で大活躍していた先輩がいたんです。僕は呉本さんからレギュラーを奪ったわけなのですが、呉本さんも決して文句を言いませんでした。その年、昇龍がごとく結果を出していった若手の僕に対して、呉本さんが最後、辞める時に「お前がもし何年後かに、俺みたいに二軍でも試合に出られなくてクビになっていく立場になったら、後輩に背中を見せられるような選手になれよ」と言われたんですよ。
そういういろいろな背中を見てきて、6年目、僕もいよいよそうなった時に、「呉本さんや佐伯さんのような背中を見せられるかどうかが、この一年間の俺の役割だ」と決意しました。なので、試合に使われないのはわかっていましたが、誰よりも早くグラウンドに行ってトレーニングをして、試合が終わったら(練習場のある)横須賀まで帰ってウエイトトレーニングをして、という日々を、誰に何を言われようがずっと続けていたんです。それで、僕は自分の中で、「やるべきことはやりきったし、後輩に背中を見せられたと思うので、もう辞めていいな」と思えました。
―― 野球界を離れ、突然、一般社会に出る不安はありませんでしたか?
僕の中で、プロ野球界で長く活躍している人たちの共通点みたいなものをなんとなく見ていたのですが、結局は『人間としての成熟度』かなと。それは、挨拶ができるとか、お礼が言えるとか、謝れるとか、約束を守るとか、本当に基本的なことだったりする。そういうことがきちんとできる選手というのは、例えば一軍で結果が出なかったり、怪我をしたりで二軍に落ちてしまった時にも、チーム全体がその選手の復帰をサポートして、「一日でも早く一軍に上げてあげよう」という力学がどんどん働いてるように見える。きっとそれはどの社会でも同じだと考えたら、僕はこの6年間、ものすごく濃い体験をしたという自信がありました。なので、24歳で社会に出ることになって、大学や大学院を経た人たちと同じ土俵に行ったとしても、「絶対に大丈夫だ」と勝手にアドバンテージを感じて、希望を持って社会に出ましたね。
そんなふうに考えられたのは、やはり、野球をやり切れたからでしょうね。いっさいの未練を残さなかったからこそ、切り替えやすかったというのはあるかもしれません。
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取材=上岡真里江
撮影=戸張亮平
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【後編】プロアスリートにとってセカンドキャリア以上に重要視されるべきは“サードキャリア”