◆ 白球つれづれ2026・第37回
「張さん、何でそんなにお元気なんですか?」
今から10年ほど前、張本勲さんに、ぶしつけな質問をぶつけたことがある。
野球界のレジェンド・長嶋茂雄さんは脳梗塞に倒れ、王貞治さんも胃がんの摘出手術をしていた。そんな中で誰よりも顔色が良く、病気とは無縁に見えた張本勲さんの健康の秘密を知りたくなったからだ。
「まあ、毎日一万歩近くは歩いているからね」が、その時の答え。
それから10年後の本年9月9日“不世出のバットマン”は、突如亡くなった。86歳。都内にある自宅近くの路上に止めた自家用車の運転席で見つかったと言う。およそ、病に伏す姿など想像できない元気印の老人は突如、この世に別れを告げた。
張本さんと言えば「天下のご意見番」のイメージが晩年は強かった。
人気テレビ番組「サンデーモーニング」のスポーツコーナーで「喝」と「あっぱれ」を連呼。時には厳しく、時には愛情たっぷりにスポーツ界の後輩たちを叱咤激励した。
だが、張本さんの生涯を振り返ると聖人君子のような「ご意見番」では、片づけられない壮絶な人生を送って来た事がわかる。
幼少期からプロ野球に入団する頃は、「暴れん坊」のイメージが強い。
出身地の広島では5歳で原爆に被爆。在日コリアンの家庭は貧困に苦しみ、自身はその後、やけどを起こす事故で、右手指の一部を欠損する。それでも野球に興じると、誰よりもうまく存在価値を発揮。いつしか腕白少年は野球で生計を助けることを決意する。
高校は大阪の強豪・浪商高。当時はPL学園や、大阪桐蔭高もないからナンバーワンの強豪校だが、鉄拳制裁は当たり前の時代。野球部以外でも風紀は乱れ、「ケンカ上等」の怖い学校だった。
そんなコワモテの張本少年がプロ野球に入団したのは1959年のこと。パ・リーグの中でも「暴れん坊軍団」の異名のある東映フライヤーズだった。エースの土橋正幸から浪商の先輩・山本八郎、後にヤクルトでも活躍する大杉勝男らいかつい男たちの集団は、乱闘が日常茶飯事。張本もまた、決して行儀の良い選手ではなかった。
それでも常人の何倍もの努力で結果を残していった。首位打者7回に、544本塁打、319盗塁はONや野村克也らの記録ホルダーでもなし得なかった金字塔だ。
豪放な暴れん坊の反面、ち密な努力もうかがえる。
投手の投球を「点」でなくより確実な「面」で捉えるために、打席での上下動を少なくする「すり足打法」を極める。足の速さを生かしたバント安打もお家芸だった。
「ランナーが塁上にいるとき、バントをすれば犠打で打率は下がらない。これが内野安打になれば打率は上がる」。そこまで計算して首位打者のタイトルを取りに行った。
“張本親分”のイメージを払拭したのは76年の巨人移籍が大きい。
前年、最下位に沈んだ長嶋巨人を救う形で入団すると見事にリーグ連覇に貢献する。指揮官の長嶋を助け、同期生の王にも刺激を与えて存在の大きさを見せつけた。
張本さんと言えば、球界きっての「情報通」としても知られた。オフのストーブリーグで、監督交代や大物選手のトレード話が出ると、張本さんのもとによく電話したことがある。裏情報は驚くほど的確だった。
「あっぱれ」と「喝」は対照的に使う言葉である。張本さんの野球人生もまた、たくさんのものを併せ持っていた。
「豪放でち密」。「厳しいけれどやさしい」。
晩年まで、右手指の欠損を隠して打撃道を極めた。
晩年になって、被爆体験を語り出し、平和の尊さを訴えた。
どれもこれもが、人間・張本勲さんの生き様だ。これこそが何物にも代えがたい「あっぱれ」である。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)