白球つれづれ2019~第5回・置き去りにされた“常識”
先日、北海道の鵡川高校野球部員が岩見沢に出掛けて、雪かきのボランティアを行ったという報道に接した。昨年北海道南部を襲った地震の際に同校も被災、各地から援助の手を差し伸べてもらったことへの恩返しだった。そんな光景を目にした時、こちらまで心温まる思いになった。
その数日前、首を傾げたくなる出来事があった。甲子園でも名の通った名門・高知商業高を巡る騒動だ。昨年12月に行われた同校のダンス同好会の発表会に野球部員が友情出演したことが、日本学生野球憲章が禁じる「部員の商業的利用にあたる」として日本高野連が問題視したのだ。
高知商側は野球部員がユニホーム姿で出演したものの、昨年の甲子園出場時にダンス同好会の応援を受けた恩返しの意味だったこと、発表会に500円の入場料を取ったのも会場を借りる経費などが目的で商業目的には当たらないと説明した。それが事実ならこれまた心温まる話題だろう。ましてや、こんなことでお上から処分でも受けたら部員たちの心の傷は一生残ることになるかも知れない。
釈然としない思いは、スポーツ界全体に広がり、アマ野球界の旧態依然とした体質まで問題視される事態となっている。問題発覚直後からスポーツ庁長官の鈴木大地が「もう少し寛容になっても」と言及すれば、元日本サッカー協会会長の川渕三郎まで「高野連は旧態依然の体質を変えないとダメだ」とバッサリ。こうした「外圧」に配慮したのか、日本高野連は先月30日に審議小委員会を開き処分対象だった高知商野球部長への処分を保留、今月13日に開かれる全体審議委員会で再度話し合うこととなった。
ルールは厳格に守るもの。その理念まで否定する気はないが、一方で世の中の常識は時とともに変わっていく。そもそも野球憲章とは1950年に制定されたものだ。70年近くたつ条文がすべて今の野球界に当てはまるわけがない。これを金科玉条のごとく、当てはめようとしたのが今回の高知商問題だ。時代錯誤と言われても仕方ない。
変化のとき
一方で、部内暴力などの不祥事は後を絶たない。今春の選抜大会に出場する春日部共栄(埼玉)、松山聖陵(愛媛)でも監督の体罰や暴行が発覚、学校の出場は認められたが指揮官は代行を立てて臨むことが確実になっている。
甲子園の常連校ともなれば、知名度の上昇と比例するように偏差値まで上がるという。少子化による学校経営に悩む私学を中心に「甲子園」は魔法のツールでもある。こうした背景の下で強豪校の多くは、有力な指導者と中学生選手の獲得に血眼になる。その上で、結果が出なければ数年でクビになる監督も珍しくない。それがまた指導者による体罰を生むと言う悪循環まで招いている。
こうした図式は大学球界でも後を絶たない。各野球連盟では暴力根絶に向けて指導者講習会などを開いて意識の改革を訴えるが、連盟そのものが生まれ変わるくらいの覚悟を持たなければ結果はついてこない。
こうした現状に昨年来、声を上げているのがDeNAの筒香嘉智である。小学生や中学生らが所属する少年野球連盟から日常化している勝利至上主義に警鐘を鳴らし、長時間にわたる練習から、自主性を認めずお仕着せになっている現状からの脱却を求めている。また、高校球児の球数制限や炎天下での休養問題など変革を求める波はそこまでやってきている。
少し古い時代の者なら、げんこつを食らっても「愛のムチ」として受け入れた。しかし今の時代は野球に限らずアウト! すぐにパワハラと糾弾される。過去の価値観に縛られず新たな指導者に生まれ変われるとしたら? すでにサッカー界が取り入れている指導者のライセンス制度の導入も一考に値するだろう。プロ野球キャンプの華やかな話題の影で野球を取り巻く諸問題の根はまだまだ深い。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)