「いい時」と「悪い時」を乗り越えて...
・2月17日、韓国KIAとの練習試合、3回無失点。
・2月23日、韓国サムスンとの練習試合、4回無失点。
DeNAのドラフト1位ルーキー・今永昇太の快投が続いている。宜野湾キャンプでは投手MVPに選出され、アレックス・ラミレス新監督も期待通りの活躍に「ハッピー」と頬を緩める。
3回途中で雨天中止となった3月9日の日本ハム戦も2回を無失点で切り抜けるなど、着実に結果を残し続ける左腕には、開幕ローテ入りが早くも囁かれ始めた。
だが、今永のアマ時代は順風満帆だったとは言い難い。いい時、悪い時の落差が実に激しい球歴を刻んできた。
小学生の頃にソフトボールを始め、中学で軟式の野球部に入部。本人曰く、当時は「ただの左ピッチャー」。後のドラフト1位の片鱗は「たぶん(誰の頭の)片隅にもなかった」という。
高校は地元・北九州の進学校である北筑へ。1年の秋からマウンドを任されるようになった今永は、ほどなく最初の「いい時」と「悪い時」を迎える。
「2年春の福岡県北部大会で3勝して、1年秋の大会に続いてベスト8入りしたんです。僕自身も調子がよくて。でも、その頃からおかしくなってしまった。別にイップスとかじゃないんですけど、自分の力が通用しないというか……」
2年の夏は1回戦で屈辱のコールド負け。秋の大会も3回戦で敗退したのを機に、強い危機感を抱く。
「プロはまだ全く意識していませんでしたが、このままじゃダメだということに気づいた。自分が何をしなければいけないのかを考えるようになりました」
そして始めたのが“肩甲骨”を意識することだった。力を入れて投げただけの棒球は打たれる。いかに打者を詰まらせ、楽にピッチングするかを模索して辿り着いた自分なりの答えだった。
今になって思えば、あくまで高校生レベルの、付け焼刃的な知識に基づいたトレーニングだったかもしれない。だがそれでも効果は出た。冬を越えた頃、球速アップを実感し始めたのだ。
3年春の1回戦、1-6で敗れたものの今永は14奪三振を記録。さらに夏の前哨戦と位置づけられる北九州市長杯では、初戦から3連続で完封。全ての試合で2ケタ三振を奪った。次戦は0-1で惜敗したが、この大会での好投を機に、今永はプロのスカウトからも注目される存在となっていった。
とはいえ、「技術的にも人間的にもまだまだ未熟」と考えていた今永は、プロ志望届を出すことなく、駒沢大学への進学を選択する。
“浮き沈み”を経て掴んだ成長
大学でも、最初にやってきたのは「いい時」だった。
2年の春、6連勝をマークしてベストナインに選出。「これでいけるんだっていう、自分のピッチングの基礎となるものができあがった」。今永は当時の手応えをそう振り返る。
しかし、好調の春から一転、2年の秋には1勝6敗と不調に陥り、チームも東都1部の最下位に沈んだ。今永は言う。
「あの神宮球場で、あの観客の前で、もっといいピッチングを見せたいと思うようになっていた。初球はアウトコース低め、チェンジアップは絶対に膝から下。全部ベストボールにしなくちゃという“きつきつ”の考え方が悪循環につながってしまいました」
それを断ち切ったのが東洋大学との入れ替え戦だ。「まっすぐ、まっすぐ、変化球。まっすぐ、まっすぐ、変化球。それくらいアバウトに」投げた結果、初戦を15奪三振で完封。2戦目もリリーフで好投し、1部残留を果たした。
3年になると、春に3連続完封を成し遂げるも、球数を要したことで後半にガス欠を起こしたと自己分析。「力で押すだけでなく、バッターが何を考えているか、アウトカウント、試合の状況全てを考慮した“根拠ある配球”」を追い求めた結果が、秋の優勝につながった。
「いい時」と「悪い時」を繰り返す中、その時々の課題に応じた解決策を導き出しては自らの成長へと結実させてきた。それが今永昇太という投手なのだ。
大学生活の最後は、再び入れ替え戦で東洋大と戦った。初戦を完封しながら、1勝1敗のタイで迎えた3戦目で9失点を喫し、駒大は無念の2部降格。
「あの時、勝っていた人生と、負けた人生。両方の道があると思いますけど、現実にいるのは負けてしまった自分なので。それを正解にするのも不正解にするのも自分だと思っています。僕は幸いにも野球でそれを取り返すことができますから」
高校、大学で浮き沈みを味わってきた今永はきっと知っている。いかにシーズン前に好投を続けようとも、その先に試練が待ち受けているだろうことを。
シーズンの目標を尋ねても「先に到達点を決めるのではなく、積み上げていった結果が納得いく数字になればいい」と、具体的な数字を口にしようとはしない。
いつか浴びるプロの洗礼をさらなる飛躍への原動力にする術を知る。22歳の新人左腕は、だからこそ頼もしい。