恒例となった強化試合と日豪戦
今や恒例となった春秋の侍ジャパン強化試合。今年もU23ワールドカップがニカラグアで行われるなど、野球の国際化が進む中、日本はプロ主体で結成される代表チーム・侍ジャパンをプロ野球シーズン前後に招集し、様々な国・地域の代表あるいは選抜チームとテストマッチを行っている。
この春の対戦相手は、昨年のWBCで相まみえたオーストラリア。3月3日にナゴヤドーム、4日に京セラドーム大阪で試合が行われる。この国とは過去にも、WBCなどの国際大会前に、度々テストマッチをしているので、ファンにとってもおなじみではないだろうか。
日豪野球「事始」
オーストラリアにプロ野球が誕生して以降、最初に「オーストラリア代表」が来日したのは、1995年11月のこと。当時監督に王貞治を迎え、飛ぶ鳥を落とす勢いだった福岡ダイエーホークスが、アジアマーケットへの進出を狙い、韓国、台湾のチャンピオンチームと、ウィンターリーグの選手中心のオーストラリア選抜チームを呼んで「アジアパシフィックベースボール」なる大会を開いたのだ。
ダイエーの優勝を見込んだこの大会だったが、当時のホークスはまだ「夜明け前」。秋山幸二、松永浩美ら主力を欠いた打線は完全に湿っていて、トーナメントの1回戦で台湾の統一ライオンズによもやの完封負けを喫してしまう。この結果、プロ同士の初の日豪戦が行われることになった。
試合は、ダイエーが3安打で辛勝し、なんとか最下位の屈辱を逃れている。スコアの方だが、この大会、実は、当時の新聞にもあまり取り上げられなかったような扱いで、なにしろ当時の主力選手に聞いても「記憶にない」と言われる始末。この試合の詳細は、調べたがわからなかった。この時期、日豪戦もまた「夜明け前」だったようだ。
恒例となったWBC前の日豪戦
その後も、オーストラリア球界と日本球界の交流はレベルを問わず継続し、とくにWBC以後、代表チームがブランド化した後は、大きな国際大会の前には必ずと言っていいほどオーストラリアとのテストマッチが行われるようになった。
とくにWBCにおいては、オーストラリアチームの来日は第2回大会以降、恒例となっており、2009年、2013年に大阪・京セラドームで行われたテストマッチでは、侍ジャパンと対戦。計4戦で日本が全勝している。2013年の第1戦目には、2006年に阪神に在籍していたクリス・オクスプリングが先発マウンドに立ち、ファンを喜ばせた。
昨年の第4回大会では、初めて両者が本戦で相まみえることになり、京セラドームで行われた恒例の日豪戦は、オーストラリアと地元球団のオリックス&阪神戦に置き換えられた。このテストマッチでは、阪神が3対0で完封勝ち、オリックスが1対1の引き分けと、オーストラリア代表が日本勢から白星を挙げることはできなかった。
そして東京ドームに場所を移した侍ジャパンとの「ガチンコ」では、侍ジャパンが先発にエースの菅野智之(巨人)を立て4対1で快勝している。
オーストラリアと言えばオリンピック
オーストラリアが日本代表のテストマッチの相手として初めて登場したのは、2007年11月のこと。まだ「侍ジャパン」のニックネームがない時代、北京オリンピックでの金メダル獲得を目指した「星野ジャパン」が、台湾でのオリンピックアジア予選を前に、福岡ヤフードーム(現ヤフオクドーム)にオーストラリアを迎えて2試合を行った。
オリッピックの開催国である中国が出場権を得ているため、国内にプロリーグを擁する日本、韓国、台湾に与えられた“椅子”は1つ(※2位と3位は世界最終予選へ)。決死の覚悟で予選本番に臨む日本代表は、前哨戦となるこの2連戦を、6対0、5対1で勝利し、オーストラリアを寄せ付けなかった。
ちなみに、このシリーズのキャッチコピーは「アテネの借りは、福岡で返す」。そう、日豪戦と言えば、外せないのが、2004年アテネオリンピックでのオーストラリアの金星2つだ。
オリンピックでの両者の激突は、1996年のアトランタ大会まで遡る。野球が正式競技に採用されて2度目のこの大会、当時まだアマチュアのみで構成された代表チームには、のちプロで活躍する松中信彦(元ダイエー・ソフトバンク)、井口忠仁(ロッテ監督)、福留孝介(阪神)、谷佳知(元オリックス・巨人)などそうそうたるメンバーがそろっていた。銀メダルに輝いたこの日本代表相手に、オーストラリア代表は9対6で勝利を収めている。
この次のオリンピックは、オーストラリアにとって地元開催になるシドニー大会。この大会からプロ解禁となり、日本代表には松坂大輔(当時西武)、中村紀洋(当時近鉄)ら8人のトッププロが加わった。この大会ではオーストラリアを7対3で下したが、日本は4位に終わりメダルを逃した。
忘れ得ぬアテネでの2つの黒星
そして2004年のアテネ大会。日本球界のカリスマ、長嶋茂雄を代表監督に迎え、オールプロで臨み、聖地での金メダルは必然と思われたこの大会で、「長嶋ジャパン」に立ち塞がったのがオーストラリアだった。
大会前に監督の長嶋を病魔が襲い、中畑清ヘッドコーチが代行監督を務めるというアクシデントはあったが、ライバルと見られたアメリカ、韓国が本戦出場を逃し、敵はキューバのみという絶好の舞台。予選リーグで初戦、2戦目と順当に勝利をおさめ、3戦目でエース、松坂大輔を立てキューバを下した日本代表の先には、「全勝優勝」しかないものだと国民はわき立った。
しかし、その翌日行われた第4戦、ナイトゲーム後のデーゲーム、それも午前11時半開始と日本にとっては、スケジュール的にかなり過酷な試合となったこのゲームの相手がオーストラリアだった。
日本は4回に3点を先制されるが、その後、福留のホームランなどで4点を奪い逆転。しかし、7回にリリーフした三浦大輔(当時横浜)が3失点を喫すると、8回にも3点を奪われて万事休す。このとき安藤優也(当時阪神)からとどめの一発を放ったのは、メジャーでの正捕手の地位をかなぐり捨て、シドニーオリンピック出場のため中日で2000年シーズンを送りながら、思うような成績を残せず日本を去ったディンゴことデーブ・ニルソン(現ABLブリスベン・バンディッツ監督)だった。
それでも日本は予選リーグをこの敗戦のみの6勝1敗で1位通過、4勝3敗で4位のオーストラリアと準決勝で再び相まみえることに。この試合、日本はエース・松坂大輔にマウンドを託し、松坂も7回1失点と期待に応えたが、6回にブレンダン・キングマンに打たれたライト前のタイムリーヒットが致命傷となった。
日本打線は、こののち日本でプレーすることになる先発のクリス・オプスプリング、当時阪神のクローザーだったジェフ・ウィリアムスに手も足も出ず、完封負け。オーストラリアは、優勝間違いなしとも言われた「横綱」、日本から2試合つづけて金星を挙げ、決勝でキューバに敗れたものの、銀メダルを手にした。
プロ参加以降、テストマッチやNPB単独チームとの対戦を含めても日豪戦で日本が負けたのはこの2回だけ。このたった2つの黒星は、日本球界にとって本当に痛い黒星だった。これまで様々なドラマを生んできた日豪戦。今回は、どんな物語を紡いでくれるのだろうか。
文=阿佐智(あさ・さとし)