「名古屋大初のプロ野球選手」の今
開幕を控えた一軍が本拠地・ナゴヤドームで紅白戦を行っていた、5月30日。名古屋大から育成ドラフト1位で入団した投手・松田亘哲の姿は、二軍の本拠地・ナゴヤ球場にあった。
一軍をうかがうチーム最年長の山井大介や、2017年夏の甲子園優勝右腕・清水達也がシート打撃に登板する中、松田はというと、シート打撃後に行われたフリー打撃の打撃投手。いわゆる「2カ所バッティング」だったから、隣にいたのは打撃マシンだ。
ストライクが入ったのは半数にも満たない。ボールを投げるたびに「すみません」「ごめん」と繰り返ししていた。
なぜ、旧帝大出身者は大成してこなかったのか
名古屋大からは初めてのプロ入りとなった。
旧帝大出身者の最多白星は、東大から大洋(現・DeNA)に入団し、旧帝大出身で初めてプロの門をこじあけた新治伸治の9勝。
「旧帝大」とは、帝国大学として設立されて現存する国立の北海道大・東北大・東大・名大・京大・大阪大・九州大の7大学のこと。過去にプロ入りを果たしたのは、東大では新治伸治のほかに井出峻(中日)や小林至(ロッテ)、遠藤良平(日本ハム)、松家卓弘(横浜)、宮台康平(日本ハム)の5名。京大では田中英祐(ロッテ)がいる。
松田に聞きたいことがあった。なぜ、旧帝大出身者は大成してこなかったと思うのか。
記者の想像では、どこかの時点で勉学に舵を切るから。多くのアスリートは高校~大学選びの段階で、学校の勉強の偏差値よりも高校なら甲子園出場、大学なら大学野球選手権を優先して選ぶ。その先にプロがあろうとなかろうと、まずはスカウトの目に触れやすい道へ進む。
もちろん、越境入学もそのひとつ。多感な10代中盤で親元を離れる決断は甲子園に出るためで、甲子園がすべてに映るから。つまり、旧帝大に入れる学業成績があると、何も野球に固執せずに高い偏差値の高校に行き、東大に受かれば東大野球部があり、六大学に揉まれることもできる。年齢を重ねるごとにプロへの意識は薄れていくのではないか、と思っていた。
「ボクの考えでは、母数が少ないからです。やればできる選手もきっと多かったと思います」
これが松田の考えだ。
メジャーには、引退後に医師や弁護士を志すプレーヤーもいる。やればできるのか、はたまた日本人は両立が上手ではないのか…。その答えは分からない。8選手しかプロ野球の門をたたいていないから、検証のしようがありませんよ、という表情をみせた。
「勉強しながら成長」
では、球団はどう見ているのか。
東大時代の宮台を視察している松永編成部長は、良い球を投げる“頻度”に着目する。
「宮台もそう。現場に行って、『この1球、いいボールだな』という球は投げるんだよね。あとは、それをどれだけの確率で投げられるようになるか」と話した。
宮台は2017年に日本ハムにドラフト7位で指名を受けた。1球1球を見れば、「素質あるな」というボールを投げていたのは事実という。
素質は認める。では、開花させられるのか──。それが、球団の役割であり、入団した選手の努力になる。
限られた時間でトレーニングをしてきた選手は、一般的に名門校と言われるところで猛練習してきたわけではない。スピンの効いた、打者を抑えられるボールを投げる確率を上げるための取り組みは平坦ではない。
知識や理論を体に染みこませるのには時間がかかる。そして、毎日、どれだけいいボールが投げられるか、というのが求められるのがプロ。
「高いレベルでいつづけられる体力も必要だよね。厳しい環境でやってこなかったわけだから、時間はそれなりにかかるよ」と松永部長は話した。
松田は中学まで軟式野球をしていて、高校はバレーボール部だった。名古屋大時代は3部の所属で、2部所属はあっても1部の経験はない。まずは素材を生かすための体力づくりから始めるしかない。
「高いレベルの選手とプレーすることになります。その時々に感じたことを勉強しながら成長していきたいです」
これが、入団から半年たった松田の現在地。まずは打撃投手でストライクを取り、次はシート打撃に登板する。そうすれば、二軍での登板も見えてくる。
今は「名古屋大硬式野球部の歴史を背負ってやりたい」と言うのが精一杯。
旧帝大出身者が大成しないのではなく、挑んできた母数が少ないからだ──。松田にはこれを腕っぷしで証明してもらいたい。
文=川本光憲(中日スポーツ・ドラゴンズ担当)