「ID野球」だけじゃない!
球界一の理論派にして「ID野球」の創始者・野村克也が“現役復帰”を果たした。
…と言ってもユニフォームを着たわけではない。実は昨年10月に突如、公の場から姿を消していたのだ。
一時は重病説や危篤説まで流れたが、今季の開幕を前にした3月になって職場復帰。真相は解離性動脈瘤を発症したものの、早期発見で大事に至らず済んだもの。とにもかくにもボソボソとボヤキながらも核心を鋭く突く「野村節」が聞けるのはなによりだ。
京都・峰山高校から1954年に南海に入団、テスト生の契約金は0円だった。
捕手というポジションはグラウンド上の監督と称されるほどの扇の要。内、外野手と違ってレギュラーはたった一人である。その座を射止めるか否かは、すなわち死活問題だから同僚からのアドバイスなどあり得ない。先輩のリード、捕球、そして打撃を見よう見まねで盗んで行った。
やがて無名のテスト生はレギュラーの座をつかむと、後に戦後初の三冠王に輝く。さらに晩年には監督兼選手の二足のわらじをはいてリーグ優勝まで成し遂げた。しかし、野球人・野村にとって面白くない事があった。いくら凄い活躍を見せてもマスコミが大きく扱うのはパ・リーグではなくセ・リーグばかり。
「ONがひまわりなら、わしは月見草や」の名言はこうした背景から生まれた。
ヤクルトの監督時代には「ID野球」が一世を風靡した。インポータントデータ。つまり、打者ならどんなカウントの時に安打を打てる確率が高いのか?投手ならどのコースを突けば打ち取る可能性を上げられるのか?スコアラーがまとめあげたデータに野村の知恵が加わることで緻密な野球が出来上がっていった。
しかし、この「ID野球」が花開く一時代前には、もっとどぎつい「スパイ野球」が展開され、その中心に野村南海がいたことをご存知だろうか?
代表的な逸話を記すと、メジャーからやってきたプレイザーが持ち込んだとされるクセ盗みやサイン盗みがある。
相手投手が投球の際にグラブからはみ出る手の角度で球種を読み切るのがクセ盗み。また、当時の南海の本拠地である大阪球場では外野にファンを装った球団関係者が望遠鏡で相手バッテリーのサインを盗む。これを手旗信号よろしく一、三塁コーチに伝える。さらには打者の股間に(一説には尻のポケット)電流を流して球種を伝えるといった行為が行われていた。
その後、この手のサイン盗みは禁じられていくが、まさに生き馬の目を抜く世界。今でも試合中にバッテリーの会話は日米ともにグラブで口を隠して行われているが、これは読唇術で解読される時代があったことの証なのだ。
文=荒川和夫