コラム

【白球つれづれ】70歳からの再挑戦

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打撃練習後に話をかわす池田氏と平沢大河 (C)KYODO NEWS IMAGES

白球つれづれ~第33回・池田重喜~


 その男はユニホームから背広に着替えて都内のホテルにいた。プロ野球経験者が学生指導を行うための学生野球資格回復制度の研修会が12月10日(土)、11日(日)の両日に行われた。

 前横浜監督の山下大輔や前ヤクルトの宮本慎也らに交じって参加していたのは、ロッテの寮長兼打撃投手を務め、今季限りの退団が決まった池田重喜、70歳。「世界最高齢の打撃投手」としてギネス記録の登録も検討された名物男でもある。

 「いやぁ、まだまだ体も動くので今度は若い人たちを教えてみたい。とくにシュートを投げられるピッチャーを作ってみたいですね。僕の若いときはシュートでプロになれたようなもの、もっとも誘ってくれるところがあればですがね」屈託のない話しぶりは年齢を忘れさせるほど若々しい。


山あり谷あり道のりプロ生活


 半世紀に及ぶプロ生活は文字通り、山あり谷ありの日々だった。社会人野球の日鉱佐賀関から大洋(現DeNA)にドラフト4位で入団したのが1967年。即戦力の期待に応えて一軍に定着、貴重な中継ぎとして活躍した。

 71年にはトレードでロッテに移籍。新天地での飛躍を誓ったものの、その直後に右肩痛を起こし登板数は激減。77年に現役を引退するが実働は74年までのわずか7年間。13勝12敗、防御率3.53が通算の成績だ。

 引退を決意する年には投手コーチ補佐の肩書も与えられたが主な仕事は打撃投手にブルペン捕手から用具係までの何でも屋。それでも腐ることなく数年後にはトレーニング指導士の資格を取得してトレーニングコーチの道を切り開いた。

 肩痛で現役を退いた男がどうしてその後の長い期間に打撃投手として投げ続けることが出来たのだろうか? 答えはおよそ科学トレーニング全盛の今とはかけ離れているのが池田らしい。「オフのたびに河原で石を投げ続けたら治ってしまった」とは恐れ入るしかない。


「運は平等ではない」


 表舞台から裏方に回っても黙々と仕事をこなす姿勢と生真面目な性格が評価されて2000年からは寮長に就任、12年からは本格的な打撃投手にも復帰した。今年の5月1日の70歳の誕生日には二軍のフリーバッティングでドラフト1位ルーキー・平沢大河らに74球の熱投を披露した。退団の決まった今でも本人は「まだまだ投げていたい」と体を休めるつもりはないようだ。

 寮長としても17年間の長さは球界でも珍しい。家族を置いて毎年正月明けから11月末まで寮に住み込み若手選手の面倒をみてきた。

 「運は平等ではない。運とはつかむ物。呼び込むんだ」が口癖。そのためには
日頃の練習から生活態度まで重要になる。部屋が汚いと運も寄ってこない。人としての姿勢、生き方が運を呼び込む、の言葉は50年近いプロの生き様があるから説得力に富んでいる。


継続は力なり


 ファームの若手を面倒見ていれば、一軍に抜擢されてスター街道を駆け上がる者がいれば、一方では毎年のように戦力外を通告されてプロの世界から去っていく者もいる。悲喜こもごもの弱肉強食の世界。そして、池田本人も49年間のプロ人生から別れを告げる時がやってきた。

「俺の人生、不器用で出来ることがこれしかなかっただけ。でも幸せな時間を過ごさせていただき感謝です」

 池田の右のポケットには常に万歩計が用意されている。一日に1万5000歩から多い日には2万歩のウォーキングを欠かさず続けてきた。さらに腹筋も一日500回をノルマとしてきた。

 長寿大国のわが国でも70歳でこれだけのメニューをこなせる人は稀有な存在である。それでいて、「今もこれからもトレーニングは続けていきますよ」と涼しい顔で言う。アマ球界の指導者に望み通り復帰を果たしたとき、75歳の、いや80歳の指導者兼打撃投手が誕生するかもしれない。


文=荒川和夫(あらかわ・かずお)

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