新たな道を作った男
「将来は、メジャーリーグに行きたい」――。それはもう遠い夢ではなくなった。
野茂英雄が開拓し、イチローや松井秀喜が広げた道を、今では多くの中高生が目指している。日本のプロ野球界で活躍した選手が次なる目標として挙げるのも、まったく珍しいことではない。
しかし、現在レッドソックスでセットアッパーを務める田沢純一には、ほかの日本人選手と決定的に異なる点がある。そう、「日本のプロ野球を経由していない」ということだ。
プロ野球を経験せず、メジャー球団と契約してトップまで昇格を果たすのは、マック鈴木と多田野数人以来で3人目。マイナー契約を経ることなくいきなりメジャー契約を結んだのは、初めてのことであった。
“例外”としてのメジャー挑戦
横浜商大高から社会人・新日本石油ENEOS(現JX-ENEOS)へと進み、迎えた4年目に大ブレイク。2008年の都市対抗野球では全5試合に登板し、完封ひとつを含む4勝。28回と1/3を投げてわずか4失点、36奪三振で防御率1.27と大車輪の活躍で、大会MVPに輝いた。
一躍その年のドラフト上位候補に登りつめるも、ドラフトを目前にした9月にメジャー挑戦を表明。記者会見を行い、プロ野球12球団にドラフト指名を見送るよう求めた。
そもそも、日米間には「お互いの国のドラフト候補選手とは交渉しない」という紳士協定があり、球団から選手へのスカウトはタブーとされていた。しかし、田沢のように選手本人が希望するメジャー挑戦を日本球界側が阻止することは、「職業選択の自由」に反するという観点から“例外”として認められたのだ。
この一連の騒動は、「田沢問題」として日本プロ野球のドラフト制度に問題を提起した。
日本球界はドラフト制度崩壊への危惧と、人材流出に歯止めをかけることを目的に、「プロ野球のドラフト指名を拒否して海外のプロ球団と契約した選手は、球団を退団した後も一定期間(※大卒・社会人は2年間、高卒選手は3年間)はNPB所属球団と契約できない」とするルールを作成。いわゆる「田沢ルール」はこうして誕生した。
今やチームに欠かせない“鉄腕”
こうした紆余曲折を経て、田沢は海を渡る。2008年12月に、レッドソックスとメジャー契約。男は夢の舞台への挑戦権を手にした。
もちろんすぐのデビューとはならなかったが、翌2009年には早くもメジャーデビュー。いきなり2勝(3敗)を挙げるも、2010年に右肘の靭帯損傷が発覚した。
トミー・ジョン手術を受けることになり、ほぼ2シーズンを棒に振った。それでも、復帰した2013年には37試合に登板して頭角を現すと、2013年には上原浩治と共に勝利の方程式の一角を担い、自己最多の71試合に登板。開幕から一度も離脱することなくフル回転でチームを支え、ポストシーズンでも13試合で1勝、防御率1.23と好投。チームのワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。
前途多難な船出となった男のメジャー挑戦であったが、今やチームに欠かすことの出来ない存在へと成長。2013年、2014年と2年続けて71試合に登板し、2015年も61試合に登板。8年目を迎える今シーズンも、ここまで24試合に登板して勝ち負けなしの防御率3.27とチームのために腕を振り続けている。
田沢が歩いた後ろに道ができる
自ら“例外”となって新たな道を切り拓き、確固たる地位を築き上げた田沢。そんな男には“持っていないもの”がある。
従来の道筋を通ってきた日本人メジャーリーガーにあって、田沢にないもの……。それは、日本プロ野球界の「帰る場所」だ。
田沢の“前所属”は社会人の新日本石油ENEOSであり、日本のプロ野球界には“古巣”がない。もちろん、メジャー挑戦の後、古巣以外の球団でプレーする選手もいるし、珍しい事でもないのだが、田沢にとっての日本は帰る場所ではなく“新天地”になる。これは今までの日本人選手が通って来なかった道である。
男の通る道が、新たな道となる。夢を追ってたどり着いたアメリカで燃え尽きるまでプレーするにしても、日本に戻ってプレーするにしても、田沢の歩いたその後ろに新しい道ができるのだ。
新たな道を切り拓いて進む、田沢のこれからの歩みに注目だ。