いよいよ4年後は東京で
日本中に勇気と感動を与えたリオデジャネイロ五輪もあっという間に閉幕。日本時間22日には閉会式が行われ、スーパーマリオに扮した安倍晋三首相がサプライズ登場するなど、次回・4年後の東京へ向けたバトンの受け渡しも行われた。
東京五輪から野球も正式競技として復活することが決定したが、その前から五輪開催期間中はプロ野球のペナントレースを中断することがオーナー会議で決定済み。お客さんも集まる夏休み期間ではあるが、「国家的なイベント。球界を挙げて協力」と早期の決断に至った。
ということで、2020年は開会式の7月24日から閉会式の8月9日までの間、プロ野球は中断する。正式種目復活の母国開催で金メダルへ...。国を挙げて全力を尽くす構えだ。
前回の東京五輪の時は...?
東京で五輪が開催されるのは、52年ぶり2度目のこと。1964年、アジアで初めて行われたスポーツの祭典に、日本中が熱狂。世界各国から集った名選手たちに酔いしれた。
この時、日本のプロ野球はどうだったのだろうか……。
1964年の東京五輪は、現在と開催時期が異なっていた。10月10日に開会式が行われ、24日が閉会式。ということでペナントレースを中断する必要はなかった。
しかし、この時もプロ野球は全面協力の姿勢を見せている。開幕を例年よりも早め、日本シリーズを10月10日までに終わらせられるように努めたのだ。
この年のプロ野球はとにかく話題が多かった。セ・リーグは阪神が優勝。最終版まで大洋とデッドヒートを演じ、最終的なゲーム差はわずか「1.0」。勝率8厘の差で猛虎軍団が2リーグ制後2度目となる優勝を果たした。
一方のパ・リーグは対照的に南海の一強状態。当時の最速記録となる9月19日に優勝を決め、勢いそのままに日本シリーズも勝利。南海が2度目の日本シリーズ制覇を成し遂げている。
王貞治の55号もこの年
個人で見ても、話題に事欠かないシーズンであった1964年。なんといってもこの年は、MVPに輝いた王貞治が神がかっていた。
5月3日の阪神戦では、1試合4打席連続本塁打を記録。これは今なお王貞治とナイジェル・ウィルソン(日本ハム)の2人しか達成できていない日本記録である。
そして9月16日の大洋戦で、当時のシーズン記録となる53本塁打を記録。最終的にはその記録を55本まで伸ばし、2013年にウラディミール・バレンティン(ヤクルト/60本)に破られるまで、50年近く日本記録として君臨する大記録であった。
この年、王は本塁打と打点の二冠に輝き、打率はトップに3厘及ばず2位。チームは3位に終わったものの、その異次元の活躍が認められてMVPを獲得した。
【1964年の王貞治】
140試 率.320(472-151) 本55 点119
出塁率.456 長打率.720 OPS1.176
考えられない“大事件”も...
最後に、この年起こった信じられない“事件”もご紹介しておこう。
1964年6月30日、広島市民球場で行われた広島-阪神の一戦。2回裏、無死一二塁の場面で広島の7番・阿南準郎が送りバントをした。
これが小フライとなり、阪神の投手・石川緑はスライディングで処理。石川は飛び出した一塁走者を先に殺し、その後一塁から二塁へとボールが渡ってトリプルプレーが成立。と思いきや、球審の稲田茂は「フェア」と判定していたのだ。
阪神側はダイレクト捕球だと思っていたため走者へのタッチはしておらず、判定通りならば一塁だけアウトで一死二、三塁から再開となるはずであった。
しかし、これに阪神ベンチがダイレクト捕球をしていたと猛抗議。すると、球審は呆気無く自らの判定を覆し、ダイレクト捕球で「アウト」を認めた。トリプルプレーも成立し、チェンジ。これに今度は広島ベンチが猛抗議。両監督も交えた激論に発展し、両軍引かないまま試合が2時間半も中断、挙句、試合続行不可能となって「試合中止」となった。
これには説明もなく待たされ続けたファンが激昂。1万人の観衆の半数近くがグラウンドに乱入し、大暴れで球場を破壊。この1試合が中止になっただけでなく、3連戦の残り2試合も「施設修繕」で中止となるという考えられない大事件となったのだった。
このように、とにかく話題には事欠かなかった前回の東京五輪。4年後は、史上初となるシーズン中の大規模中断が行われることもあり、これがペナントレースにどんな影響を与えるのか。そしてどんなドラマが生まれるのか...。今から4年後がたのしみだ。