“ポスト・松井稼頭央”は元サッカー少年!
2013年、歓喜の日本一から一転、今季はパ・リーグ最下位に沈んだ楽天。無敗のエース・田中将大(ヤンキース)を失ったとはいえ、64勝80敗はいかんせん寂しい数字だった。
それでも、大久保博元新監督の下、明るい光は見えている。その一人が、高校卒5年目のシーズンを終えたショート・西田哲朗だ。名手・藤田一也と二遊間を組み、131試合に出場。“ポスト・松井稼頭央”と呼ぶにふさわしい存在感を示した。
西田は1991年生まれの23歳、大阪府出身。小さい頃はサッカーが大好きで、サッカーチームに入っていたという。転機が訪れたのは1998年、小学校1年生の夏。父親の母校である関西大学第一高校(大阪)が、エース・久保康友(現・DeNA)を擁して甲子園出場を果たす。野球好きの父親は、サッカーに夢中の息子を連れて甲子園へ。思惑通り野球にはまった西田は、近くの公園で父親と野球をやるようになった。
サッカーと父親と二人の野球を並行して続けていたが、4年生のとき、強豪チーム「浜一タイガース」に入団して野球に専念。チーム競技としての野球にのめり込んでいった。ピッチャー、内野手、外野手とさまざまなポジションをこなしつつ、5年生の頃から、「一番難しいショートが自分を成長させる」と考えていたそうだ。
6年生になると硬式の「豊中リトル」に移り、中学時代はボーイズリーグの「八尾ペッカーズ」に所属。ピッチャー、ショート、外野手として活躍した。なお、同じ関西地区のボーイズリーグには、筒香嘉智(堺ビッグボーイズ/現・DeNA)、岡田俊哉(日高マリナーズ/現・中日)など、高校からプロに進むライバルがいて、チームぐるみで交流があったという。
“ポスト・松井稼頭央”から“楽天の西田哲朗”へ!
中学卒業後は、父親の母校・関大一高へ。もちろん、父親のすすめもあったが、最終的には「野球も勉強もしっかり打ち込めそうだ」と自分で決断した。
1年夏からショートを任され、2年春から「振り子打法」に挑戦すると打撃が格段に向上。「自分の中でしっくりきた」と長打を連発するようになった。振り子といってもオリックス時代のイチローそのものではなく、「西田式」と呼べるタイミングの取り方へと改良。現在は振り子打法ではないが、パワーに頼らずボールを飛ばす技術は、高校時代から追い求めてきた進化形といえる。
さらに、50メートル6秒0の足で盗塁を量産。高校通算113盗塁は、川崎宗則(当時ソフトバンク)を見て研究を重ね、自分流にアレンジした結果という。
甲子園出場はならなかったが、当時の大阪では陽川尚将(現・阪神)と並ぶ逸材ショートとして注目の存在に。プロのスカウトが観戦する試合では必ず結果を残し、「素晴らしい集中力」「勝負強い選手」という好印象を与え続けた。
迎えた2009年秋のドラフトでは、楽天が2位指名。「これまでは投手主導だったが、生え抜きのいい野手が欲しかった」と球団社長がコメント。筒香嘉智(横浜高→DeNA1位)、今宮健太(明豊高→ソフトバンク1位)、堂林翔太(中京大中京高→広島2位)ら、甲子園を湧かせた選手に劣らぬ評価を受けてプロ入りした。
プロ1年目は、2軍で67試合に出場。希望通りのショートを守り、一軍昇格をめざした。しかし、翌2011年、同じポジションの松井稼頭央がメジャーから復帰して加入。一軍では1試合の出場(プロ初出場)にとどまった。
3年目は開幕1軍を果たすも、打撃不調で二軍降格。それでも後半戦は代走や守備固めで起用され、チームの期待を感じさせた。日本一となった2013年、4年目のシーズンは一軍で26試合、二軍で18試合。腰痛が悪化して約3カ月の離脱期間があったものの、日本シリーズではベンチ入りを果たした。
そして、5年目となる2014年は、131試合出場、打率.250、プロ初ホームランを含む7本塁打。三振100、失策11はいただけないが、「どんどん使うよ」と明言した星野仙一監督(当時)の期待に応えてみせた。
11月下旬の契約更改では、1100万円増の1800万円(推定)でサイン。「まだ、レギュラーを取ったとは思っていません。キャンプ、オープン戦からアピールしたいです」と意気込みを語った。西田の1週間後に契約更改した松井稼が「来季は外野一本で勝負したい」と宣言し、ショートのポジションは完全にあく形となったが、大久保監督は「いまは横一線。一生懸命やっている選手を使いたい」と突き放す。
ドラフト指名直後に掲げた目標は「3割、30本」。しかし、高校時代のインタビューでは「走攻守すべてで完全無欠の選手をめざします!」と語っており、30盗塁も狙える選手である。トリプルスリーを達成して、“ポスト・松井稼頭央”から“楽天の西田哲朗”へ。このまま、生え抜きスター選手への道を駆け上がっていくだろう。
文=平田美穂(ひらた・みほ)