小中時代はノーコンで全国区になれず……
CS、日本シリーズ、日米野球が一気に終わり、すっかりシーズンオフだと感じる季節。各種表彰、シーズン記録に並ぶ顔ぶれを見て今季を振り返り、来季に思いを馳せる時期でもある。
投手成績で目を引くのが、セ・リーグ投手成績4位の左腕・大野雄大(中日)だ。2年連続で4位に沈んだ、かつての「投手王国」にあって一人、気を吐いている。
大野は1988年生まれ、京都府京都市出身。田中将大(ヤンキース)、前田健太(広島)らと同じ「88世代」である。2010年ドラフトで、澤村拓一(中央大→巨人)、斎藤佑樹(早稲田大→日本ハム)、大石達也(早稲田大→西武)、塩見貴洋(八戸大→楽天)らと共に、大学生投手としてドラフト1位指名を受けた。
野球を始めたのは小学生から。5年生で少年団に入り、主にライトとファーストを守った。6年生で投手になったが、四球を出してばかりのノーコンだったという。
京都市立藤森中学校では、軟式野球部に所属。2年時に京都市大会、京都府大会優勝(メンバー入りするも登板機会なし)。エースとなった3年時も市大会で優勝したが、府大会は初戦敗退。近畿大会、全国大会出場はならなかった。なお、2年春の練習試合、3点リードの場面でリリーフ登板した大野は、四球を連発して同点とされ降板。この悔しさから、本気で「うまくなりたい!」と自主練習を始め、コントロールが安定するようになったという。本人がターニングポイントと語る大事な試合が、中学時代にあった。
軟式の逸材左腕として注目を集める中、選んだ進学先は京都外大西高校。投手陣が充実したチームで、公式戦初登板は2年春。夏の大会では登板機会もあったが、準優勝した甲子園では出番なし。優勝を決めて雄叫びを上げる駒大苫小牧高校の2年生エース・田中将大を、ベンチから見つめていた。
2年秋の府大会では、エース級の活躍で優勝に貢献。しかし、続く近畿大会では登板なし。同学年と1学年下の2投手に注目が集まっていた。その悔しさを練習にぶつけ、3年春の甲子園で全国デビュー。初戦敗退ながら、先発の座を勝ち取るまでになった。しかし、3年夏の府大会は背番号10。準決勝で先発を任されたが、下位打線から3ランを浴びるなどして敗退。絶対的エースになれず、高校野球は終わった。
「世代ナンバーワンになる」はプロで実現!
高校卒業後は、地元・京都の佛教大学へ。1年春からベンチ入りし、開幕戦でリリーフ登板を任されるなど「大事にされた」と振り返る。
主戦投手となったのは3年春から。リーグ優勝を果たし、全日本大学野球選手権では中京大学に完封勝利。秋の明治神宮大会では九州産業大学に完封勝利。4年の大学選手権では東北福祉大学に完封勝利。ストレートは151キロを計測。
この活躍で、世界大学野球選手権に出場する代表入り確実と思われたが、まさかの落選。代表候補合宿などでも同世代のスター選手に闘志を燃やし、「これで選ばれへんわけないやろ、というぐらいの気持ちでした」と語る大野は、激しく落ち込んだという。しかし、別の国際大会に出場する機会を得て、キューバ相手に完投勝利。悔しさをバネに、貴重な経験と結果を得た。
ところが、帰国して間もない8月に左肩故障が発覚。最後のリーグ戦に登板できず、ドラフト会議を迎えた。同世代の投手たちが複数球団に重複指名される中、中日が単独1位指名。「最初からいきたいです!」と意気込む大野に、球団関係者は「先発で考えている。焦らずじっくりやってほしい」と告げたという。
1年目はほとんどをファームで過ごし、プロ初勝利は2年目の2012年。翌2013年からローテーションの一角を担い、25試合に登板して10勝10敗、防御率3.81。そして今年は、25試合に登板して10勝8敗、防御率2.89。大学時代、周りから「肩投げ」といわれ、本人も「完全に上半身。下半身を使っているイメージはないです」と認めていた上半身主導のフォームから、下半身をしっかり使ったフォームへと進化。谷繁元信兼任監督には「ただ投げるんじゃない。意思のある球を投げろ」と口うるさく言われるそうだが、ストレートはより重くなり、変化球のキレも向上。それが、目に見える成績へとつながっている。
左肩の不安が消え、今オフは毎日ボールを握ると宣言。ローテ入り3年目となる来季は開幕投手を狙い、そこから突っ走るつもりだ。3年連続二ケタ勝利は当然。15勝以上を積み上げることができれば、投手王国復活、3年ぶりのAクラス復帰、その先の頂点も見えてくる。
大学時代、「世代ナンバーワンになりたい」と話していた地方リーグのエース。プロ入り後は、同じ「88世代」の前田健太もライバル視している。何度も味わってきた悔しい思いと熱い心を原動力に、さらに成長していくことだろう。
文=平田美穂(ひらた・みほ)