コラム

「1番・松井稼頭央」が躍動した時代 90年代後半西武中心打者を振り返る

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交流戦期間中に節目の350盗塁を記録した松井稼頭央©BASEBALLKING
松井稼頭央,

5月から走者を「還す」役割の4番に入った松井稼頭央


 今シーズン、楽天は5月からベテランの松井稼頭央が4番に起用している。本来4番を打つべきペーニャの調子がまるで上がらないことで、大久保博元監督が決断しての起用となったようだ。

 だが、やはり松井稼頭央といえば、スピードと強打を併せ持った1番打者としての印象が圧倒的に強い。いまだに全盛を誇った1990年代後半の西武時代の姿に思いを馳せるファンも多いことだろう。

 となれば、いまや走者を「還す」役割となった松井を、当時、還していた西武のクリーンナップはどのような打者たちだったのか? そこもチェックしておきたい。

 今回は、90年代後半における西武の中心打者についてランキングで紹介したいと思う。


清原が去ってようやく4番打者として覚醒した鈴木健


 まず、第1位に選んだのは鈴木健だ。鈴木は浦和学院高時代、清原の持つ高校通算本塁打の64本を上回る83本を打ったスラッガーとして知られ、夏の甲子園では、同じく140キロ後半の豪速球が話題だった尽誠学園高・伊良部秀輝(元ロッテ他)との勝負が注目された。

 プロ入り後は、黄金時代を築いていた清原和博や石毛宏典ら一軍メンバーの壁が高く、今ひとつ華のある存在になりきれずにいたが、清原がフリーエージェントでチームを去った1997年に4番に入ったことで、ようやく西武の「顔」になったと言っていいだろう。リーグ優勝を決めたダイエー戦でのサヨナラ本塁打は、まさにそれを示したものだった。

 続いて第2位はドミンゴ・マルティネスを選定した。「マルちゃん」のニックネームで親しまれた巨漢のスラッガーだったが、常にフルスイングするスタイルながらもボールコンタクトが良かったために打率も高く、1997年から5番に入り.305、31本塁打108打点。1998年は打率は落ちたものの、.283、30本塁打、95打点と申し分ない成績を挙げてパ・リーグ2連覇に貢献した。

 だが、守備が不得手という難点などがあり、西武は1998年を最後にマルティネスと契約せず。翌1999年はメキシコなどでプレーしていたが、清原和博が故障で抜けた穴を埋めるために巨人がシーズン途中に獲得。2001年まで日本で活躍した。

 最後に3位は高木大成だ。桐蔭学園高、慶応義塾大とアマチュアで活躍した捕手で、1995年秋のドラフト会議で西武を逆指名して入団したスター候補生だった。

 だが、当時は伊東勤(現ロッテ監督)が確固たる存在として王者・西武の司令塔に収まっていた時代である。高木は果敢に正捕手の座に挑んだが叶わず、打力を生かすために1997年から一塁手へ転向。これが功を奏して3番打者に定着。打率.295、7本塁打、64打点に加えて24盗塁と「走れる3番」として活躍した。1番・松井稼頭央(62盗塁)、2番・大友進(31盗塁)と合わせて、上位打線の3人で117盗塁という俊足ぶりは相手チームに脅威を与えた。高木は1999年以降、故障がちとなって思うような活躍ができなくなり、出場機会が年々減少。2005年のシーズンを最後に現役を引退した。

松井稼頭央は実は3番も過去に数多く経験済み


 以上、ランキングを振り返ったが、90年代後半をリアルタイムで見ていたファンからは、「要するに1997~1998年の3番高木、4番鈴木、5番マルティネスを並べただけ?」という突っ込みがくるかもしれない。

 だが、よくよく調べると、実は松井稼頭央は1番以外の打順も結構多かったことが判明した。東尾修監督が就任した当初の1995~1996年は1番にメジャーリーガーのジャクソンがいたし、1999年以降は2001年頃まで3番で起用されていることが多かった。そのため、90年代に松井稼頭央を還していた打者は、実際この3人がほとんどすべてだったのだ。

 錯覚というのは恐ろしい……。あれだけ1番のイメージが強い選手なのに、実際は「還す」側の3番を打っていた時間がかなり長かったのである。とにもかくにも……「還す」側・4番に座った松井稼頭央がどんな打撃を見せてくれるのか、見守ってみたいと思う。

文=キビタキビオ(きびた・きびお)
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