監督として04年に西武で日本一も、まだ発展途上
名捕手が名監督になる。それは、捕手だけがグラウンド全体を見渡せ、試合をリードする役割があり、それはつまり、監督の役割に似ているということ。試合を冷静に分析したり、投手心理、打者心理を読むことが仕事。捕手は、「試合監督」でもある。
野村克也氏、森祇晶氏の2人が、その代表格。野村氏は24年の監督生活で5度のリーグ優勝、日本一3度を果たした名将。森氏は11年の監督生活で8度のリーグ優勝、日本一は6度。その森氏が西武監督時代に捕手として育ててもらったのが伊東監督である。
選手として西武一筋で22年間プレーし、西武黄金時代を支えた名捕手だ。打撃はチャンスにしぶとく、守備は強肩、リードも的確、正確なキャッチングに定評があった。
だが、監督としては、まだ発展途上。03年に現役を引退し、翌年西武監督に就任。1年目はレギュラーシーズン2位ながら、ポストシーズンで勝ち上がり、日本シリーズに出場。
中日を4勝3敗で破り、日本一に輝いた。だが、それからの3年、そして13年に千葉ロッテ監督に就任してからは、優勝から遠ざかっている。
まだ名将と言われる領域にはたどり着いていない。ただ、その片鱗は見せている。04年の日本シリーズ。1年目監督とは思えない「采配」で周囲を驚かせたことがあった。第5戦を終え、2勝3敗。あとがない状況の移動日。伊東監督は、その日を完全休養日にしたのだ。
「一日休んだくらいで、何かが変わるわけではない。負けたらぼくの責任だし、選手も疲れているからね」。これは、大きな、腹の据わった指揮官の決断だった。その後にチームは2連勝、逆転で日本一を勝ち取った。
こだわりの指導方法も伊東監督の特長だろう。現役時代、意外にも足が速く134盗塁は捕手としては日本記録。305犠打は、歴代4位だ。そんな指揮官が鬼と化したのが昨季5月。
連戦が続く中、休日返上でQVCマリンフィールドに野手陣を集め、緊急練習を敢行した。それまで度重なるバント失敗で、接戦を落とし続けたチームに我慢ならなかったのだ。
「ここぞというときにバントを決められなければ意味がない。大切なプレーなんだから」と、選手一人一人に約40分間、バントだけを練習させた。熱い気持ちも持ち合わせる。
西武には戻らず、ロッテで結果を残す
13年、ロッテ監督1年目の出来事だった。ある西武ファンの男性からサインを求められ、それに応じたあと、「いつか西武の監督に戻ってきて下さい」と声を掛けられた。
それに対し、伊東監督は「残念ですが、それは絶対にありません。それだけは言っておきます」と断言したというのだ。西武監督時代、1年目に日本一に輝きながら、その後の3年間で優勝を逃し、監督を解任された。
その恨みがあるのかどうかは定かではないが、「もう西武には戻らない」という決心がみてとれる。
4年連続でチームスローガンを「翔破」に決めた。ロッテの監督になって4年目となる伊東監督の覚悟が見えた。「今季は何が何でも頂点を目指します。昨年は惜しかった、という声を頂きましたが、今季は、そこで終わるわけにはいきません。強い気持ちで結果を出します」。
ロッテでは3位、4位、3位。目標は、あくまでも1位。そして日本一。伊東監督が名将の仲間入りを果たせるかどうか。この1年にすべてをかける。