今オフも大きな注目を集めている中日の契約更改。昨年は合計8億3000万円とも言われるコストカットに成功し、その手腕が称えられた落合博満GMであったが、2年目を迎えた今年はすんなりとは行かなかった。
10日の交渉で平田良介はサインをしたものの、大島洋平は5日の交渉で2度目の保留。越年か、ひいては年俸調停も見えてくるほど、両者は平行線を辿っている。
もし、年俸調停となれば、2010年の西武・涌井秀章以来で史上8人目。球団では、皮肉なことにGMの落合氏以来の年俸調停となる。
落合氏は現役時代の最低年俸が360万円、最高年俸は3億8000万円。1986年から96年まで球界最高年俸選手であり続け、生涯獲得年俸は33億円を超えるという選手であった。
ご存知の通り、契約更改時のエピソードと言えば数知れず。球界初の1億円プレーヤーであったり、会見での「いち・ろく・ご」などが有名であるが、中でも欠かすことのできないものといえば、日本人として初の年俸調停を行なった90年の契約更改であろう。
「いち・ろく・ご」の言葉通り、1億6500万円の年俸を勝ち取って迎えた落合博満37歳のシーズンは、131試合の出場で打率.290、本塁打34、打点102を記録。当時史上初となる両リーグでの本塁打王を達成し、打点王、さらには最高出塁率のタイトルも獲得した。
そのオフに行われた契約交渉で、1億6500万円からの大幅アップを目論む落合と球団との間で条件面の折り合いがつかず、翌91年の2月に日本人選手として初めての年俸調停に乗り出すこととなった(外国人を含めると、73年に当時阪神のレオン・マックファーデン以来2度目)。落合氏の希望は2億7000万円、球団は2億2000万円を提示し、調停の末、球団側の金額での決着となった。
ただし、1億円以上のアップを望んだ落合氏にはマスコミからのバッシングも少なくなかったが、後に「年俸調停は球団代表との間で最初から決めていた」ものであったと語っており、球団との確執などに関しては否定している。
中日の契約更改は、残すはドミニカへ武者修行に行っていた又吉克樹と大島の2人。長期戦の様相を呈している大島との契約更改はどのような結末を迎えるのだろうか。
【落合博満の契約更改】
1982年 1600万円→5400万円
・(29歳)打率.325、本塁打32、打点99で史上最年少三冠王に輝く。
・当初の提示は4500万円も、「もう一度よく考えてくださいよ」とだけ発し、沈黙。900万円の上積みを勝ち取った。
・交渉後には、「オレも28歳。せいぜいバリバリやれてあと4、5年がいいところ。もらえる時にもらっておかないと。成績が悪かったら半分カットでも構わない。その代わり4割打ったら1億円もらいますよ」と言い残し、球団事務所を去った。
1985年 5940万円→9700万円
・(30歳)打率.367、本塁打52、打点146で2度目の三冠王。
1986年 9700万円→1億3000万円
・(31歳)打率.360、本塁打50、打点116で2年連続3度目の三冠王。
・稲尾監督解任を機にトレードで中日へ移籍。「自分を一番高く買ってくれる球団に行く」
・初の1億円プレーヤーに。
1989年 1億3000万円→1億6500万円
・(36歳)打率.321、本塁打40、打点116で史上初の両リーグ打点王。
・1度保留した後、2度目の交渉で更改。記者会見の席に現れる、着席するなり笑顔で開口一番「いち・ろく・ご」
1990年 1億6500万円→2億2000万円
・(37歳)打率.290、本塁打34、打点102で本塁打と打点の二冠。
・日本人初の年俸調停を経て、2億2000万円に収束。
1993年 2億5000万円→3億8000万円
・(38歳)打率.285、本塁打17、打点65
・FAで巨人へ移籍。
1996年 3億8000万円→3億円
・(43歳)打率.301、本塁打21、打点86
・巨人に自由契約を申し入れ、日本ハムへ移籍。
1998年 3億円
・(45歳)打率.235、本塁打2、打点18
・現役引退。
10日の交渉で平田良介はサインをしたものの、大島洋平は5日の交渉で2度目の保留。越年か、ひいては年俸調停も見えてくるほど、両者は平行線を辿っている。
もし、年俸調停となれば、2010年の西武・涌井秀章以来で史上8人目。球団では、皮肉なことにGMの落合氏以来の年俸調停となる。
落合氏は現役時代の最低年俸が360万円、最高年俸は3億8000万円。1986年から96年まで球界最高年俸選手であり続け、生涯獲得年俸は33億円を超えるという選手であった。
ご存知の通り、契約更改時のエピソードと言えば数知れず。球界初の1億円プレーヤーであったり、会見での「いち・ろく・ご」などが有名であるが、中でも欠かすことのできないものといえば、日本人として初の年俸調停を行なった90年の契約更改であろう。
「いち・ろく・ご」の言葉通り、1億6500万円の年俸を勝ち取って迎えた落合博満37歳のシーズンは、131試合の出場で打率.290、本塁打34、打点102を記録。当時史上初となる両リーグでの本塁打王を達成し、打点王、さらには最高出塁率のタイトルも獲得した。
そのオフに行われた契約交渉で、1億6500万円からの大幅アップを目論む落合と球団との間で条件面の折り合いがつかず、翌91年の2月に日本人選手として初めての年俸調停に乗り出すこととなった(外国人を含めると、73年に当時阪神のレオン・マックファーデン以来2度目)。落合氏の希望は2億7000万円、球団は2億2000万円を提示し、調停の末、球団側の金額での決着となった。
ただし、1億円以上のアップを望んだ落合氏にはマスコミからのバッシングも少なくなかったが、後に「年俸調停は球団代表との間で最初から決めていた」ものであったと語っており、球団との確執などに関しては否定している。
中日の契約更改は、残すはドミニカへ武者修行に行っていた又吉克樹と大島の2人。長期戦の様相を呈している大島との契約更改はどのような結末を迎えるのだろうか。
【落合博満の契約更改】
1982年 1600万円→5400万円
・(29歳)打率.325、本塁打32、打点99で史上最年少三冠王に輝く。
・当初の提示は4500万円も、「もう一度よく考えてくださいよ」とだけ発し、沈黙。900万円の上積みを勝ち取った。
・交渉後には、「オレも28歳。せいぜいバリバリやれてあと4、5年がいいところ。もらえる時にもらっておかないと。成績が悪かったら半分カットでも構わない。その代わり4割打ったら1億円もらいますよ」と言い残し、球団事務所を去った。
1985年 5940万円→9700万円
・(30歳)打率.367、本塁打52、打点146で2度目の三冠王。
1986年 9700万円→1億3000万円
・(31歳)打率.360、本塁打50、打点116で2年連続3度目の三冠王。
・稲尾監督解任を機にトレードで中日へ移籍。「自分を一番高く買ってくれる球団に行く」
・初の1億円プレーヤーに。
1989年 1億3000万円→1億6500万円
・(36歳)打率.321、本塁打40、打点116で史上初の両リーグ打点王。
・1度保留した後、2度目の交渉で更改。記者会見の席に現れる、着席するなり笑顔で開口一番「いち・ろく・ご」
1990年 1億6500万円→2億2000万円
・(37歳)打率.290、本塁打34、打点102で本塁打と打点の二冠。
・日本人初の年俸調停を経て、2億2000万円に収束。
1993年 2億5000万円→3億8000万円
・(38歳)打率.285、本塁打17、打点65
・FAで巨人へ移籍。
1996年 3億8000万円→3億円
・(43歳)打率.301、本塁打21、打点86
・巨人に自由契約を申し入れ、日本ハムへ移籍。
1998年 3億円
・(45歳)打率.235、本塁打2、打点18
・現役引退。