1998年、横浜の日本一に貢献した主力がまた一人ユニフォームを脱ぐ。中日の谷繁元信監督兼任選手は21日、今季限りで現役引退を表明した。98年に13勝を記録した楽天の斎藤隆も、今季限りで現役引退することを発表している。当時若手だった多村仁志、相川亮二などは現役を続けているが、移籍した選手を含めて当時の主力メンバーで現役は三浦大輔1人になった。
谷繁と斎藤は横浜以外でプレーしたが、三浦は他球団へ1度も移籍することなく24年間横浜一筋でプレーを続けている。また98年V戦士ではないが、後輩の内川聖一、村田修一などはFAで横浜を去っていった。2005年を最後にAクラスがないチームで、三浦は必死に腕を振っている。
三浦は、91年ドラフト6位で大洋に入団。95年に先発ローテーションに入り、97年に初めて二ケタ10勝をマーク。日本一になった98年は25歳。この年は先発ローテーションの一員として12勝を挙げた。西武との日本シリーズでは第3戦に先発したが、制球が定まらず序盤でノックアウト。日本シリーズでは、まだ勝利投手になれていない。
00年以降はエースとして、低迷するチームを引っ張った。決してチーム状況がいいとは言えなかったが、黙々と自分の役割を全う。ただ08年オフにFA宣言し、阪神へ移籍が噂されたこともあった。しかし、横浜よりも高い金額を提示した阪神ではなく、「強いチームに勝って優勝したい」と男気溢れるコメントを残し残留を決意。阪神に対しても電話で断りを入れるのではなく、自ら出向く誠意を見せている。
その後10年に3勝8敗、防御率7.23と低迷するも、翌年に復活。12年と13年は規定投球回に到達し健在ぶりをアピール。14年からは投手コーチを兼任する。今季は、ここまで15試合に登板して5勝。個人記録でも、NPBタイ記録となる23年連続勝利、NPB歴代5位の23年連続安打記録を達成した。
チーム名が大洋、横浜、DeNAと変更しても一途に横浜でプレーする。98年の日本一、2000年代の低迷期、強かった頃も弱かった頃も知る三浦は“横浜のレジェンド”といえるだろう。
谷繁と斎藤は横浜以外でプレーしたが、三浦は他球団へ1度も移籍することなく24年間横浜一筋でプレーを続けている。また98年V戦士ではないが、後輩の内川聖一、村田修一などはFAで横浜を去っていった。2005年を最後にAクラスがないチームで、三浦は必死に腕を振っている。
三浦は、91年ドラフト6位で大洋に入団。95年に先発ローテーションに入り、97年に初めて二ケタ10勝をマーク。日本一になった98年は25歳。この年は先発ローテーションの一員として12勝を挙げた。西武との日本シリーズでは第3戦に先発したが、制球が定まらず序盤でノックアウト。日本シリーズでは、まだ勝利投手になれていない。
00年以降はエースとして、低迷するチームを引っ張った。決してチーム状況がいいとは言えなかったが、黙々と自分の役割を全う。ただ08年オフにFA宣言し、阪神へ移籍が噂されたこともあった。しかし、横浜よりも高い金額を提示した阪神ではなく、「強いチームに勝って優勝したい」と男気溢れるコメントを残し残留を決意。阪神に対しても電話で断りを入れるのではなく、自ら出向く誠意を見せている。
その後10年に3勝8敗、防御率7.23と低迷するも、翌年に復活。12年と13年は規定投球回に到達し健在ぶりをアピール。14年からは投手コーチを兼任する。今季は、ここまで15試合に登板して5勝。個人記録でも、NPBタイ記録となる23年連続勝利、NPB歴代5位の23年連続安打記録を達成した。
チーム名が大洋、横浜、DeNAと変更しても一途に横浜でプレーする。98年の日本一、2000年代の低迷期、強かった頃も弱かった頃も知る三浦は“横浜のレジェンド”といえるだろう。