年齢を重ねるごとに進化した速球投手もついに幕引き…
元メジャーリーガーで、山本昌(中日)に続く現役2番目の高齢選手だった斎藤隆(楽天)が、2015年のシーズン限りで引退することを発表した。
「ハマの大魔神」こと佐々木主浩がマリナーズへ移籍した2000年代以降こそ、国内外でリリーフとして実績を示す姿が目立った斎藤だが、1990年代はスタミナ抜群の速球投手として先発でバリバリ投げていた。
今思うと、それはすでに15年以上前のこと――。当時の横浜ベイスターズの先発ローテーションを担っていたのはどんな顔ぶれだっただろうか? ランキングにして当時を振り返ろう。
横浜の躍進に貢献した戸叶と川村
まず、話題の主である斎藤本人については第1位で確定するものとし、第5位から第2位までカウントダウンさせていこう。
トップバッターの第5位は、戸叶尚だ。サイドスローから力のあるストレートを武器にスライダー、シンカーなどを交えた投球を披露。97年は斎藤が故障によりシーズンを棒に振っているが、そのときに先発として定着してキャリアハイとなる10勝を挙げた。
翌98年も先発として7勝(8敗)。ただし、時折狂ったようにボールを連発するなど安定感に欠くところがあり、プロ生活を通じて完投ゲームは1度もなかった。2001年にはオリックスへ移籍して、2005年には新生・楽天へ。中継ぎとして活躍した。
続いて第4位は、現在DeNAのピッチングコーチを務めている川村丈夫を選んだ。
川村は立教大時代に東京六大学リーグで活躍し、96年のドラフト会議では逆指名で横浜に入団したエリート投手。右打者に向かってインステップで踏み出しながら、グラブ側の左手を高く掲げ、背中を見せるように壁をつくってから一気に投げ下ろす投法を武器に、1年目の97年から2ケタ・10勝を挙げた。
斎藤が戦線離脱していたこの年は、川村や戸叶の台頭もあって横浜は2位に躍進しており、翌年も8勝を挙げた川村は38年ぶりの日本一の原動力となった。さらに翌99年には、手首を返さず窓を拭くように投げる新球・チェンジアップがハマり、自己最多の17勝を挙げている。
左腕エースとして斎藤と両輪を組んだ野村、そして今なお現役を続ける番長も
第3位には、左腕エースだった野村弘樹を挙げたい。
野村はPL学園で立浪和義(元中日)や橋本清(元巨人)、片岡篤史(元日本ハム)らと甲子園春夏連覇を果たし、大洋ホエールズ時代の88年にドラフト3位で入団した。
スピードはそれほどなかったためにドラフト時の評価はやや低めだったが、プロ入り後は制球の良さと粘り強さを発揮。93年には17勝で最多勝を獲得している。大学を経て横浜入りした斎藤とは同い年で、Bクラスに低迷していた頃から日本一に上がっていく90年代のチームをともに支えた。
そして、第2位は“ハマの番長”こと三浦大輔に捧げたい。
三浦は斎藤と同期入団。高卒ということもあって一軍定着は斎藤のほうが早かったが、95年頃から頭角を現して8勝(8敗)を挙げると、多彩な球種と制球力に加え、要所で見せる勝負度胸の良さで試合を崩さず、エース級にのし上がった。
その後、現在も現役で奮闘しているのはご存知の通り。斎藤とは4歳違いの番長が、斎藤と同じ45歳まで現役を続けられるか、期待がかかるところだ。
最後に、第1位はもちろん斎藤となる。
98年の日本一時には、マホームズ、関口伊織、福盛和男などが故障から完全復帰するまでのシーズン序盤にわずかに先発したものの、それ以外はランキングで挙げた5人で投げ抜いた。
以上でランキングとしてはひと通り出揃ったが、先発ではない投手で番外編をひとり。冒頭でその名がわずかに登場した大魔神・佐々木について触れておきたい。
佐々木は、東北高から東北福祉大を経てプロ入りしており、これは、後に斎藤が2年遅れでたどるルートとまったく同じである。そのことからも、両者の関係が深いのは言うまでもない。
一見すると、先輩の佐々木が斎藤を従えていたのではないかと思いがちだが、実際には斎藤があまりにもおおらかな性格だったために、几帳面な佐々木が逆に斎藤の世話をすることもあったという話を、たびたび佐々木がコメントしている。ピッチングにおいてももちろん同様で、斎藤が先発して作った勝ちゲームを、リリーフした佐々木が数多く拾うという流れだった。
文=キビタキビオ(きびた・きびお)