迷った末の日本ハム入団
長野久義、菅野智之、大谷翔平...。彼らの共通点がすぐに分かるという人は、よほどの野球マニアだろう。
彼らは、ドラフト前に意中の球団やメジャー挑戦の意思を固めながら、日本ハムから強行指名を受けた選手たちだ。
指名後に入団拒否を表明した選手もいれば、粘り強い交渉の末に入団する意思を固めた選手もいる。代表的な長野、大谷、菅野は、それぞれの決めた道で結果を残している。
2003年のドラフト会議、この年も日本ハムは揺るがない信念のもと、一人の投手を指名した。浦和学院の左腕・須永英輝である。
球団としては、将来性豊かな左腕を「チームの将来を背負う投手」と評価したうえで指名を決断。2位で交渉権を獲得した。ところが、そこにはひとつ問題があった。須永本人が巨人入りを熱望していたことだ。
指名翌日、須永は日本ハムの挨拶を拒否。直後には、社会人野球を経て、意中の巨人入りをする決意を表明する。しかし、結局迷ったのちに、一転して日本ハム入りを決断した。
念願の巨人を経て、帰ってきた左腕
ルーキーイヤーの2004年には、ファームで6月途中までに6勝をマーク。6月16日の一軍初先発では3回7失点とほろ苦いデビューも、二軍では最多の10勝を挙げ、翌年以降の活躍がおおいに期待された。
しかし、2005年からは不振に悩まされる。結局、デビューから2010年までの7年間で一軍での登板は24試合に留まり、0勝3敗で2ホールドという成績。プロ初勝利を挙げられないまま、2010年のオフに紺田敏正と共に巨人に移籍した。
移籍後は、12年に左肘を手術。巨人での一軍登板は2014年の1度きりで、0回1/3を3失点でマウンドを降りる。そして2015年の6月、須永はトレードで日本ハムに復帰することとなった。
プロ13年目を迎える今シーズン、須永はファームで奮闘を続ける。26日現在、主にリリーフとして9試合に登板。0勝0敗2セーブ、防御率2.00という成績を残している。
左の中継ぎの柱である宮西尚生や石井裕也など、左のリリーフが故障や調整不足で出遅れた今シーズン。須永にとってはチャンスといえるだろう。
帰ってきたファイターズで恩返しを…。左腕は静かに闘志を燃やす。