ニュース 2016.05.27. 10:00

クルーズ、ナバーロだけじゃない! セカンドを守った助っ人外国人といえば…

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現役時代横浜(現DeNA)で活躍したロバート・ローズ (C)KYODO NEWS IMAGES
 助っ人外国人といえばファーストやサード、外野、または指名打者というケースが多く、二遊間を守る助っ人外国人は他のポジションと比べると少ない傾向だ。今年はルイス・クルーズ(巨人)、ヤマイコ・ナバーロ(ロッテ)がセカンドを守っているが、過去にもセカンドでプレーした助っ人外国人は何人もいた。

 1950年代には阪急にロベルト・バルボンがいる。キューバ出身で55年に入団。主に1番打者として活躍し58年から3年連続盗塁王を獲得。その明るいキャラクターも相まって「チコ」というニックネームでチームメイトやファンから愛された。引退後は阪急で通訳を務め、関西弁を交えたそのユニークな話術も話題を呼んだ。

 そのバルボンが阪急最後のシーズンとなった64年に、セカンドのレギュラーとなったのがダリル・スペンサーだった。俊足巧打タイプのバルボンとは違い、190センチ近い長身のスペンサーは長打が売り物のスラッガータイプ。来日1年目には36本塁打を放ち、4番打者として活躍する。

 翌65年スペンサーは南海・野村克也と激しい打撃タイトル争いを繰り広げる。本塁打、打率で野村の後ろをピッタリと付けていたスペンサーだったが、シーズン終盤に交通事故に遭い戦線離脱。その結果、野村は戦後初となる三冠王を達成することとなった。67年、38歳のシーズンとなったスペンサーは30本塁打を放ち阪急のチーム初優勝に貢献。パワーだけでなく投手のクセを見抜く名手でもあった。

 72年には大洋にジョン・シピンが入団。長髪にヒゲというワイルドな風貌は、当時人気のキャラクターにちなんで「ライオン丸」と呼ばれた。大洋に在籍した6年間で30本塁打以上は3度、ダイヤモンドグラブ賞(当時)を2度受賞と攻守で活躍した。

 78年には巨人に移籍。移籍にあたって長髪とヒゲをバッサリと切り、一転して紳士的な風貌に変わる。しかし、古巣・大洋と対戦した5月30日の試合では死球を受けると激昂。相手投手に殴りかかり退場処分を受ける出来事もあった。王貞治に代わって4番を任されることもあったシピンだったが、80年に巨人を退団。現在、クルーズが背番号11を付けているのは、かつて同じ番号を背負ったシピンだ。

 一方、パ・リーグでは75年から始まった阪急の3年連続日本一に、正セカンドのボビー・マルカーノが大きく貢献していた。ベネズエラ出身のマルカーノは75年に阪急へ入団する。主に加藤秀司、長池徳二に次ぐ5番打者として活躍。ダイヤモンドグラブ賞を4度獲得する堅実な守備はもちろん、78年には打点王を取るなど強打のバッターとしても名を馳せた。

 最近で記憶に新しいのは横浜のロバート・ローズだろう。入団前の評判では同期入団のグレン・ブラッグスの方が高かったが、来日1年目の93年にはいきなり打点王を獲得する。97年から4番に座り、翌98年は38年ぶりの日本一に大きく貢献する。特にファースト・駒田徳広、セカンド・ローズ、サード・進藤達哉、ショート・石井琢朗の内野陣はリーグ屈指の高い守備力を誇った。

 さらに99年、ローズは開幕直後から打ちまくり、打率.369、153打点で二冠王。打点は日本記録の161打点に迫る勢いだった。02年にはロッテで日本球界復帰したローズだったが、春季キャンプ途中に退団し帰国するハプニングもあった。

 その他にもグレッグ・ラロッカ、ホセ・オーティズなどもセカンドを守る助っ人外国人として活躍した。
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