『俺たちの時代』を語りつくそう~90年代横浜中継ぎ投手ランキング~
ついにプロ野球が開幕した。今年は黒田博樹がメジャーから復帰した広島が世間的にも大いに注目されているが、セ・リーグではオープン戦好調だったDeNAにも期待がかかる。
このところ9年連続でBクラスに沈むDeNAも、前身の横浜ベイスターズ時代の1998年には日本一を成し遂げている。このときは、「大魔神」こと佐々木主浩が絶対的なクローザーとして君臨し、「マシンガン打線」と呼ばれる切れ目のない打線の破壊力もあって、夏場以降の快進撃で一気に頂点に登りつめた。
しかし、当時のベイスターズを支えた戦力は他にもあった。それは、先発投手陣から大魔神につなげる中継ぎ陣の存在である。今回はその点に着目し、当時活躍したリリーフ投手をランキングにまとめた。今回は5位からカウントダウン形式で紹介しよう。
40試合以上登板の投手が多数存在、近鉄時代は大エースだった阿波野も…
まず、第5位は関口伊織だ。テークバックがかなり背中側の方に入るのが特徴の左腕投手で、プロ1年目の1996年からチーム事情によって先発・リリーフのどちらもこなした。日本一になった1998年もシーズン前半は主に先発を務めたがなかなか勝ちにつながらず。後半からはリリーフに回っている。
続いて第4位は島田直也。常総学院時代は甲子園で活躍し、日本ハム入団直後から芝草宇宙とともに「SSコンビ」と呼ばれたほどの期待の若手だったが、1992年からは横浜の前身である大洋に移籍。その後、主に中継ぎとして一軍に定着し、1994年に9勝、1995年はオールリリーフで10勝を挙げた。1998年に日本一となったシーズンでも54試合に登板し、6勝2敗1セーブと安定した投球を見せている。コンパクトなフォームから、得意のスライダーを淡々と投げ込む姿が印象的だった。
さらに、第3位は阿波野秀幸を選出した。近鉄の左腕エースとして1年目から一世を風靡する活躍を見せ、1988年にはあの「10.19」ことロッテ対近鉄の川崎球場最終ダブルヘッダーに中1日で2試合連続リリーフ登板。2試合目に同点ホームランを打たれて毛差で優勝を逃した悲劇の投手だ。
翌1989年は19勝を挙げ、チームもパ・リーグを制覇して前年の雪辱を果たしたが、90年代に入ると得意としていた一塁牽制をボークと取られるようになった不運に加えて故障なども重なり、成績が急降下。近鉄から巨人を経て1998年から横浜でプレーした。
全盛期を知るパ・リーグファンにとっては、中継ぎとして投げている阿波野を見るだけでも忍びないのに、横浜では結構打たれることもあって(防御率4.67)余計に辛かった。それでも使われ続けたのは、近鉄時代からピッチングコーチとして阿波野を知る権藤博監督の信頼感によるところが大きく、リリーフの手ゴマとしては十分に機能していた。
2位と1位は大魔神じゃない「魔神」の2人
第2位は大型右腕の横山道哉とした。横浜高校から入団後、プロ3年目の1998年にリリーフとして53試合に登板し日本一に貢献している。ただ、横浜ではその期待の大きさに対してフルに応えられたかと問われると微妙で、2004年に日本ハムに移籍してからの方が、セーブ王を受賞するなど数字がついてくるようになった。
そして、栄えある第1位は「ヒゲ魔神」こと五十嵐英樹。前出の横山も「小魔神」などと一部で言われるなど、大魔神・佐々木にあやかって何でもかんでも“魔神”をつけりゃあ良いってものではないが、五十嵐の「ヒゲ魔神」は、笑いと親しみにあふれていて、抵抗なく受け入れられていたように記憶している。
その名の通り鼻の下にヒゲをたくわえ、プロ野球選手としてはやや太めの体型から、スライダーを中心に気持ちを全面に出して抑えた。日本一になった1998年のシーズンでは、時としてマウンドで雄叫びを上げるなど、心身とも充実した投球を見せており、当時を語るうえで必ず名前を出さねばならない投手と言えるだろう。
最後に蛇足ながら番外編をひとつ。1997年まで大魔神につなぐ強力なセットアッパーとした活躍した盛田幸妃も挙げておきたい。
盛田は右打者の内角をえぐるシュートやキレの良いスライダーなどを持ち球にする速球投手で、盛田→佐々木とつなぐ投手リレーによって下位に沈むことの多かった横浜の数少ない勝ちパターンを形成した功労者だ。横浜が優勝した1998年には、すでに近鉄に移籍してしまっていたが、その功績の大きさに「優勝の場に盛田もいさせてあげたかった」と思ったファンも数多かっただろう。
文=キビタキビオ(きびた・きびお)