躍動する「1番・センター」に注目!
今年もセ・パ同時開幕となった2015年のプロ野球。セ・リーグでは阪神が、パ・リーグでは西武が、開幕3連勝という最高のスタートを切った。
西武はさらに勝ち星を重ね、開幕5連勝。今年のキャッチフレーズ「開幕からリベンジだ!」を地で行く戦いぶりである。
打線の切り込み隊長は、「1番・センター」秋山翔吾。開幕3連戦では、12打数5安打2打点、打率.417、出塁率.462と大活躍。4月3日(金)までの6試合すべてでヒットを放ち、開幕初黒星となった同日のソフトバンク戦でも3安打。守備を高く評価されてきた左打ちの外野手が、完全に覚醒の時を迎えた。
秋山は1988年4月16日生まれ、もうすぐ27歳になる。神奈川県横須賀市出身で、父親(故人)の手ほどきで野球を始めたという。横須賀市立大津中学校では陸上部に所属し、野球は硬式クラブチーム「横浜金沢リトルシニア」でプレー。2年夏の全国大会ベスト8という記録が残っている。
中学卒業後は、横浜創学館高校へ進学。2学年上には坂田遼(現・西武)がいた。同校ホームページには2010年時のプロ入りに寄せて、「強いリーダーシップと自律心を併せ持ち、自らの将来像を見据えて努力する選手でした」という野球部顧問のコメントが掲載されている。
指導者も認める努力家・秋山は1年生からレギュラーをつかみ、3年夏は神奈川県大会ベスト8。準々決勝は、福田永将(現・中日)が主将を務めた横浜高校に2対12のコールド負け。3年春の大会で痛めた手首の影響が残っていたというが、悔しい思いで高校野球を終えた。
秋山が高校3年生だった2006年秋のドラフトの目玉は、田中将大(駒大苫小牧高→楽天→ヤンキース)、前田健太(PL学園高→広島)、坂本勇人(光星学院高→巨人)など。逸材ひしめく“88世代”にあって、秋山も野球雑誌の有望高校生リストに掲載されていた。
当時の体格は、182センチ、72キロ。「軸が決まった力強いスイング」「俊足」「目の高さで長く伸びる送球ができる強肩」などと評価されていた。本人もプロ志望だったというが、指名する球団はなく、八戸大学に進学した。
取り返せなかった4月の不振…。今季は開幕から突っ走る!
生まれ育った地を離れての大学生活。ここでの4年間が、野球人生の転機となる。
プロ入り後のインタビューでは大学時代を振り返り、「遊びに行くところもないし、コンビニに行くにも時間がかかるような場所。野球に集中するにはもってこいの環境でした」と語っている。
1年生からレギュラーとなり、4年春には首位打者を獲得。春のリーグ戦を制して出場した大学選手権ではベスト8進出。大学球界を代表する左腕・乾真大(現日本ハム)擁する東洋大に敗れたが、その乾から神宮球場のバックスクリーン右にホームラン。ネット裏に陣取ったスカウト達をうならせた。
2010年秋のドラフトは、大学4年を迎えた“88世代”が話題をさらった。早稲田大学の大石達也(現西武)、斎藤佑樹(現日本ハム)、福井優也(現広島)に、中央大学のエース・沢村拓一(現巨人)...。秋山は、大石と牧田和久(日本通運)に次ぐ3位で、西武の指名を受けた。
当時の野球雑誌は、秋山の外野守備、二塁打、三塁打を打てる打撃と俊足、頭を使った走塁、旺盛な探求心などを絶賛。「10年間、1番・センターを任せられる選手」と評した。
2011年4月12日、日本ハム戦でプロデビュー。翌日にプロ初安打初打点を記録し、そのまま外野のレギュラーをつかむ。4年目の昨年まで毎年100試合以上出場(2013年は144試合出場)と期待に応えてきた。
しかし、昨季は開幕から打撃不振に陥り、二軍落ちも経験。最終的に打率.259とまとめたが、年俸は300万円減の6200万円(推定)。「4月に数字が上がらず、すごく苦しいスタートになってしまった。そこから盛り返すのは難しかったです」と振り返った。
その反省を生かし、今年のオープン戦では打率.459をマーク。2位の安達了一(オリックス)が.364だから、12球団全選手中ダントツ1位の数字である。その勢いのまま、開幕を迎えたというわけだ。
アマチュア時代から「頭を使う選手」と評されてきただけに、同じ失敗はくり返さない。入団以来、初めて味わったBクラスの屈辱から脱するため、開幕から突っ走る。
「1番・センター・秋山」のコールが、このまま143試合響き続けるように―。磨き上げてきた攻守走とフィジカルと頭脳で、チームを引っ張っていく。
文=平田美穂(ひらた・みほ)