『俺たちの時代』を語りつくそう~90年代後半・阪神暗黒時代の外国人野手ランキング~
開幕3連勝とスタートダッシュに成功しながら、その後失速。最終的は4連勝で4月を締め、借金は「1」で終えたものの、苦しい戦いを強いられた阪神。現在の打線の構成上、中核を担うマートンとゴメスの両外国人の調子に対しては、ファンも神経質になりがちだ。
だが、1990年代の阪神を思い出してほしい。前半こそオマリーとパチョレックのコンビが活躍したが、その後は来日してくる選手の多くが期待通りの活躍にはおよばず、チームの長い低迷の遠因となっていた。
今もファンが嘆くディアーとグリーンウェル
ディアーは「バットで風を吹くためだけにやってきたのか?」と嘆きたくなるほど空振りを繰り返し、グリーウェルに至っては、ゴールデンウィークの期間だけ出場して自打球で足を骨折すると、「野球を辞めろという神のお告げを受けた」という、最高にぶっ飛んだ理由で引退してしまった。
ただ、この2人があまりにも有名すぎて、ほかの選手の存在が希薄となっている。今回はそんな90年代後半における「暗黒時代の外国人野手」をランキング形式で紹介し、今一度掘り起こしたい。
いつもよりも少し人数が多い5名をカウントダウン形式で登場させるが、果たしてどれだけ覚えているだろうか?
ハイアット、シークリスト、ハンセン...当時は白人系右の大砲か左アベレージタイプに獲得が集中
まず、5位はフィル・ハイアット内野手だ。右投げ右打ち、身長190センチの大型サードで28歳と若い選手。グリーンウェルと同じ1997年に入団した。
前年にAAAで42本塁打もリーグ最多の180三振を喫しており、来日前からディアーの二の舞いとなる匂いがプンプンしていたが……球団は若さゆえの対応力にかけたのだろう。だが、プレースタイルはそう簡単には変わらず、67試合で11本塁打。確かにバットにボールが当たればよく飛んだが、その5倍以上の64三振では非常に厳しい。
元中日のコールズの途中入団により、一時期過ごしたファームでは21試合で打率.291、9本塁打と活躍したため、我慢して育てるかと思いきや、結局、オフに退団。ちぐはぐな獲得となった。
つづいて、4位はリード・シークリスト内野手。右投げ左打ちのシュアな中距離タイプで、グリーンウェルの帰国後、6月に入団。来日初打席で代打安打を放ち、しばらく起用されたが、7月になると不振となり、シーズン途中で退団。俗にいう「選手名鑑に掲載されなかった」外国人選手となった。
そして、3位はデーブ・ハンセン。右投げ左打ちの打率を稼ぐタイプとしてかなり期待されていた記憶があるが、シーズンを通して打率.253、55打点と触れ込み通りにはいかず、1年で退団となった。帰国後はメジャーに復帰し、一時は代打で活躍。現在はエンゼルスで打撃コーチをしている。
野村克也監督時代の大物といえばブロワーズ、そして1位は...
2位はマイク・ブロワーズ。右投げ右打ち188センチ。「内野ならどこでも守れる」という触れ込みと(日本ではサードのみ)、マリナーズ時代の1995年に23本塁打を放った長距離砲として期待され1999年に来日。野村克也監督をむかえたチームに華を添える4番打者として、一時期は活躍して野村・阪神ブームに少しだけ貢献した。
だが、この選手もディアータイプで、外の誘い球が増えると三振が増加。その後、不振にはまると8月1日を最後にスタメンからその名が消え、2年契約を結びながら、3日後の8月4日に早くも戦力外通告となった。
そして、いよいよラストの1位はマーク・ジョンソンだ。ブロワーズをしのぐ193センチ、やや猫背の構えが特徴的な左投げ左打ちのファーストとして(登録上は兼任していた外野手)1999年に入団。巨人との開幕カードでは第2戦、第3戦で2試合連続ホームランを放って勝ち越しに貢献。7月14日の横浜戦までに早くも19本塁打を量産するなど大活躍した。
しかし、シーズン後半になると、驚くほどに打てなくなり、シーズンが終わってみると結局は20本塁打。球団から戦力外通告を受けて帰国した。前半の活躍だけでみれば、迷走していた阪神外国人選手の中でもっとも光を放った選手だったといえるだろう。
文=キビタキビオ(きびた・きびお)