確かに一軍で活躍はしている…しかし、なぜに背番号「1」?という選手
7月17日、18日に開催されるオールスターゲームの出場選手が発表された。
初出場の選手で目に止まったのが清田育宏(ロッテ)の存在だ。筆者は東洋大時代に神宮球場で活躍していた頃から見ていただけに感慨深いものがある。だが、ロッテ入団時にいきなり背負った背番号「1」は、アマチュア時代に派手な実績を残したわけでもない清田にはちょっと荷が重くないか?と心配したものである。
ところが、プロ入り6年目でようやく打撃が開眼。今回の球宴出場によって、見た目は地味だが存在感のある背番号「1」となった。
プロ野球の長い歴史には時折、清田のようなケースがある。それは1990年代も例外ではない。秋山幸二(西武~ダイエー)や池山隆寛(ヤクルト)、前田智徳(広島)など、名実とも派手な選手が活躍する一方、地道な背番号「1」も存在していた。今回はそんな陰に隠れた名選手をランキングで紹介していこう。
中込は珍しい背番号「1」のプロ右腕 愛甲はプロの野手としては叩き上げだった
まず、第3位は中込伸(阪神)だ。何よりも投手として背番号「1」をつけている事自体、珍しい。確かに、当時はこの後に登場する愛甲猛(ロッテ)や近藤真一(中日)など、まったくいなかったわけではないが、それは、300勝投手・鈴木啓示のイメージを重ねた左腕投手への期待という意味合いが強かった。
ところが阪神は、1987~1990年の野田浩司に続いて、もともと「99」だった中込に95年から「1」を与えるということで、なぜか右腕に引き継がれた。ただ、手術明けだった本人にとっては心機一転になったようで、中込は1998年に完全復活。成績的自体は負け数が先行する地味めなものだったが、先発ローテーションの一角として存在感を示した。
次に第2位は愛甲猛(ロッテ)を選んだ。甲子園優勝投手としての華々しい活躍を考えたら、「どこが地味なんだ!」と反論する人がいるかもしれない。だが、元はといえば、現在の松井裕樹(楽天)のように投手として華々しい活躍を期待されて与えられた背番号「1」だった。
だが、残念ながら実績を挙げられなかったことで、野手に転向して一から地道にはい上がってきた。その意味では、1990年代の愛甲は、ロッテの当時の球団の立ち位置を考えても決して派手だったとはいえないだろう。尊敬すべき「叩き上げ」である。
つなぎ役の二遊間に多かった背番号「1」 広瀬はその代表格として1位に選出
そして、栄えある第1位は広瀬哲朗(日本ハム)だ。スキンヘッドにメガネをかけた風貌で、俊足、強肩を生かしたショートの守備は超一流。打撃はボールに食らいつくタイプの“ガツガツファイター”ということで、個性的な選手ではあった。
だが、チームの役割としてはあくまでバイプレイヤーであり、決して派手ではなかった。実をいうと、この頃の背番号「1」には、広瀬のような「つなぎ役の二遊間」という選手がやたらと多い。小川史(ダイエー)、福良淳一(オリックス)、小坂誠(ロッテ)、種田仁(中日)、進藤達哉(横浜)などが、長年この番号を背負って地道に活躍をしている。広瀬の第1位は、こうしたメンバーを代表しての選定だ。
以降、今回は蛇足的に「特別賞」の2選手を取り上げて締めたい。ひとりは、現在も中日の兼任監督として奮闘中の谷繁元信(当時横浜)だ。
捕手として珍しく背番号「1」をつけたのは、それだけ期待が高かったことの証である。だが、当時のプロテクターの仕様だと、捕手として出場しているときは背中のバンドに「1」が隠れてしまい、背番号がない選手のようになってしまった。そのため、1993年から「8」に変更している。
そして、もうひとりはブロッサー(西武)。「誰それ?」と思う人の方が多いだろう。1999年に西武がシアンフロッコとともに獲得したものの、34試合に出場して打率.198、3本塁打というサッパリの成績で、1年でクビになった選手である。90年代に背番号「1」をつけた外国人選手は、ほかにオマリー(阪神)がいるが、ブロッサーはその再来にはならなかった。
文=キビタキビオ(きびた・きびお)