9月は順位争いが白熱するなか 非情なる戦力外通知の季節でもある
9月に入ってプロ野球は順位争いが激しくなる一方、来季の戦力構想から外されたり、正式に戦力外通告を受ける選手が出始めている。
8月には、メジャーでもリリーフ投手として活躍した斎藤隆(楽天)が引退を表明。今年50歳で現役を続けた山本昌(中日)は、度重なる故障で記念碑的な勝利を挙げることができず、今後の進退はシーズンをまっとうしたのちに自ら決断をする模様だ。
このほかにも、正式発表には至らぬものの、引退を決断した選手が数人ながら報道されている。今回はそんな選手のなかで、1990年代を全盛期としてファンに夢を与えた功労者にスポットを当て、ランキング形式で紹介していこう。
最初の2年は控え捕手だった小笠原 和田も捕手兼外野手の時代が長かった
まず第3位は小笠原道大(中日)だ。9月13日現在、まだ正式に引退を発表はしていないが、今シーズン前半に代打メインで打率.318という成績を挙げていながら「引退濃厚」と報道されている。
小笠原は1996年にドラフト3位で日本ハムに入団。当時は内野手と捕手を兼任するユーティリティープレイヤーという位置づけだった。もともと左打ちの打撃は評価が高かったが、最初の2年は控え捕手として試合に出場していた。
だが、身体能力が高く、社会人のNTT関東時代には横浜スタジアムで場外ホームランも打ったことがあるという思い切りの良い打撃はやはり捨てがたいとして、1999年から一塁手へ完全転向することに。その狙いはズバリあたって大活躍。2番ながらバントをせずにガンガン打ちまくり、打率.285、25本塁打、83打点の好成績を挙げて開花し、当時日本ハムが看板としていた「ビックバン打線」を象徴する存在になった。その後、巨人、中日とチームを移りながら長年に渡り活躍した。
続いて、第2位は同じく中日から和田一浩を選んだ。
和田も小笠原と同じく1996年にドラフト4位で西武に入団。当初は捕手だったが、チームには伊東勤(現ロッテ監督)が揺るぎない正捕手として君臨していたため、レギュラーの座は遠く、さらに1998年にはオリックスで正捕手だった強肩の中嶋聡まで入団してきた。そのため、打撃の良さを生かして外野を兼任する年が続いた。
それでも、1990年代は将来の正捕手候補として正式な野手転向はせず、1999年に入団してきた大物新人・松坂大輔(現ソフトバンク)と何度もバッテリーを組んでいる。最終的には2002年から外野手に専念し、極端なオープンスタンスからの一本足打法で好成績を収め続け、今年6月には史上最年長となる42歳11か月での2000本安打を達成した。
エリートとしてプロ入りした谷は2000本ならず プロ野球選手の数奇な運命を象徴する存在に
そして、第1位は谷佳知(オリックス)に捧げたい。先出の小笠原、和田と同じ1996年のドラフトでプロ入りした谷は、同年夏のアトランタオリンピックで日本代表の3番打者として銀メダル獲得に貢献しており、オリックスを逆指名して入団したエリートだった。
当時のオリックスは、パ・リーグ2連覇(1996年は日本一)を果たしており、イチロー(現マーリンズ)、田口壮、本西厚博で組まれるプロ野球史上屈指の外野陣を誇っていたが、そこに割って入る形で1年目の途中からレギュラーに定着。芸術的なインコース打ちに代表される広角打法で一時代を築いた。また、柔道の金メダリスト・田村亮子と結婚したことでも話題となった。
今回、実は偶然にも同じ年にプロ入りした3人が、ほぼ同じタイミングで揃って引退に向かうという格好になった。だが、その後の野球人生をそれぞれ振り返ると、色々と考えさせるものがある。
捕手としてスタートした時点では想像できなかった小笠原と和田が名球会入りを果たしたのに対し、谷は2000本安打まであと100本を切りながら達成できずに引退。プロ野球選手の波多き運命を感じさせる3選手の野球人生であった。
文=キビタキビオ(きびた・きびお)