努力と忍耐の末につかんだ“キング”の座
ソフトバンクホークスの球団会長にして、世界少年野球財団理事長。さらに日本野球機構のコミッショナー特別補佐や、名球界顧問など、王貞治は75歳の今も目の回る忙しさに身を置いている。
2006年には監督在任中に胃がんのため休養を余儀なくされるなど、決して万全な健康状態とは言えないながら、野球界をはじめ各方面から引く手あまた。それを断ることなく律儀にこなしていくのは実に王さんらしい。
「世界の王」――。言わずと知れた幾多の栄光と共に語り継がれるレジェンドである。868本の本塁打は今後も塗り替えるのが不可能とさえ思えるとてつもない記録だ。
三冠王2度。本塁打王は15回、打点王も13回を数える。ON砲を称して「記憶の長嶋、記録の王」と表現するが正しくない。記録にも記憶にも残るから天下の“ON”なのだ。
天賦の才能は確かにあった。しかし、努力と忍耐の末につかんだキングの座である。
「僕は、野球の大きな節目は挫折から始まっている」かつて王はこう語っている。立大から巨人入りした長嶋が1年目からスーパースターの階段を駆け上がっていったのに対し、王は違った。
早実高では甲子園の優勝投手として鳴り物入りで入団するが、最初の試練は投手失格の烙印と打者転向の宣告だった。ルーキーにもかかわらず先発起用されたのは素質を買われてのものだが、成績はさっぱり。
転機は3年後のオフに荒川博が打撃コーチとして就任したこと。中学時代の王の打撃を偶然目にした際に左打ちを勧め、早実への進学の道筋をつけてくれた恩師との“再会”が怪物変身のスタートとなる。
まさに寝食を忘れてマンツーマンの指導を受け、「一本足打法」を習得するとあとは文字通りの「王道」を歩み続けた。
スーパースターが味わった挫折
1980年の現役引退。当時担当記者だった当方にもほろ苦い思い出がある。
王の引退ともなればビッグニュース。日頃の言動には細心の注意を払っていたが、現役続行のひとつの目安を30ホーマーに届くかどうかと語っていた。
最終的に30本塁打、84打点まで記録すれば、普通は引退する数字ではない。しかし、この年の王は、試合中でも味方の攻撃中に選手食堂に戻ってくると、当時流行っていた「ルービックキューブ」に興じながら記者と談笑することも珍しくなかった。
いつもなら鬼気迫る表情で他を寄せ付けない“グラウンド上の鬼”が、どこか緊張の糸を切らしていたのだ。それからまもなくの引退発表。変化に気付いた時にはあとの祭りだった。
王の挫折に話を戻す。藤田監督のもとで助監督として帝王学を学んだ後、満を持して巨人監督に就任するも3年間優勝なし。胴上げを味わったのはその翌年のことだった。
さらに巨人と袂を分かって95年から指揮をとった福岡ダイエーでも雌伏の時期が続く。最下位に沈んでいた2年目の近鉄戦では、不甲斐ない戦いに怒ったファンから生卵を投げつけられるという屈辱を受けた。特に王の場合は、現役時代の実績が図抜けていたため、これが苦労の種となった側面もある。
「何でこれが出来ない?」とイライラする指揮官と、恐れ多くて監督と意思疎通を図れない選手。スーパースターだったからこそ監督として悩んだという点では、長嶋と共通しているかも知れない。
誰もが認める人格者は、博多名物の屋台にもぶらりと顔を出す庶民派だ。ダイエー、ソフトバンクの監督として最後には栄冠も手にした。球団会長として今季のリーグ制覇も時間の問題。まだまだのんびりするのは先になりそうだ。(敬称略)
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)