今年の新春、ある民放テレビ局の特集が大きな話題を呼んだ。長嶋茂雄の特別番組。2004年に脳梗塞に倒れた長嶋は今でも右半身が自由に動かず、言語にも不自由な部分が残っているが、その壮絶なリハビリを含めた映像には野球ファンならずとも大きな感銘を受けた。正直に告白すれば、個人的には病に倒れた後の「ミスター」には、あまり公の場には出て欲しくなかった。
その理由は二つ。まず、長嶋茂雄は太陽であると少年時代から偶像視して来た者からすれば病後の姿を痛々しく感じていたこと。そして、かねてから「長嶋ブランド」を利用して商売する一部取り巻きを苦々しく思っていたからだ。これまでもリハビリの姿は断片的には見聞きして来たが、この特番では包み隠さず必死の形相で快方に向けて挑戦する男の姿が紹介されていた。
さらに「自分がこうしたリハビリに打ち込む様子を見てもらうことで同じ環境の方々に少しでも励みになれば」と言う長嶋の言葉にこちらの不明を恥じた。
「栄光の男」「ミスタープロ野球」。長嶋の輝かしい現役時代は今さら言うまでもない。僚友・王貞治と共に築いた歴史はプロ野球の隆盛期を具現化し、時代に大きな足跡を残した。今でも長嶋と会う時には喜びと緊張を同時に感じる。他のスーパースターとは違うオーラがこの人にはある。しかし、華やかさに彩られていた現役の時とは対照的に通算15年に及ぶ監督時代は決して順風満帆なものではなかった。
ONのあとにONなし。監督就任1年目となる1975年には球団史上初となる最下位。47勝76敗7分けの惨敗は優勝した広島から実に27ゲーム差をつけられるものだった。V9戦士は退団したり、衰えが見えたりの「茶がら」状態は同情に値するが、一方でセオリーを度外視で感性を重視した采配は「勘ピュータ野球」の酷評すらあったのも事実だ。もちろん、金満球団・巨人のこと。その後は他チームからトレード、FAで次々とスター選手を獲得するも戦力の均衡化が進んでいけば連覇すら至難の業である。
常勝の宿命と大幅な戦力ダウンの狭間で長嶋が大きな手術を決断したのはそれから4年後の79年オフのこと。これが伝説の伊東キャンプだ。この年、再び5位に沈むと静岡・伊東に江川、西本、中畑、篠塚、山倉、松本など若手の18選手だけを集めると猛烈な特訓が始まった。練習を終えた選手は足腰が立たず宿舎の2階に這いつくばって上がるほど。1000本ノックを受けた中畑はノックバットを振る長嶋の顔を目がけて返球するほど殺気立った修羅場だった。
しかし、彼らの成長に確かな手ごたえを感じたのもつかの間、翌80年も優勝を逃すと解任、第一次長嶋政権はあっけなく幕を閉じた。それから、ふたたび監督の座に復帰するには13年の歳月を要している。第二次政権も合わせ監督の通算成績は延べ15年間で日本一2度、リーグ制覇5度。「通信簿」とすれば微妙な数字だ。
それでも長嶋の功績はこうした上辺の物だけでは測れない。伊東でその後の巨人の屋台骨を背負う若手を育て、後には松井秀喜を「四番千日計画」と称して鍛え上げた。「育成の将」と言うべきか。何より長嶋の周りには人が集まり、テレビの視聴率も藤田、王、原監督の時代より高かった。太陽の明るさと誰にも負けない野球愛。やはり、時代は変わっても「ミスターはミスター」なのである。(敬称略)
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)
その理由は二つ。まず、長嶋茂雄は太陽であると少年時代から偶像視して来た者からすれば病後の姿を痛々しく感じていたこと。そして、かねてから「長嶋ブランド」を利用して商売する一部取り巻きを苦々しく思っていたからだ。これまでもリハビリの姿は断片的には見聞きして来たが、この特番では包み隠さず必死の形相で快方に向けて挑戦する男の姿が紹介されていた。
さらに「自分がこうしたリハビリに打ち込む様子を見てもらうことで同じ環境の方々に少しでも励みになれば」と言う長嶋の言葉にこちらの不明を恥じた。
「栄光の男」「ミスタープロ野球」。長嶋の輝かしい現役時代は今さら言うまでもない。僚友・王貞治と共に築いた歴史はプロ野球の隆盛期を具現化し、時代に大きな足跡を残した。今でも長嶋と会う時には喜びと緊張を同時に感じる。他のスーパースターとは違うオーラがこの人にはある。しかし、華やかさに彩られていた現役の時とは対照的に通算15年に及ぶ監督時代は決して順風満帆なものではなかった。
ONのあとにONなし。監督就任1年目となる1975年には球団史上初となる最下位。47勝76敗7分けの惨敗は優勝した広島から実に27ゲーム差をつけられるものだった。V9戦士は退団したり、衰えが見えたりの「茶がら」状態は同情に値するが、一方でセオリーを度外視で感性を重視した采配は「勘ピュータ野球」の酷評すらあったのも事実だ。もちろん、金満球団・巨人のこと。その後は他チームからトレード、FAで次々とスター選手を獲得するも戦力の均衡化が進んでいけば連覇すら至難の業である。
常勝の宿命と大幅な戦力ダウンの狭間で長嶋が大きな手術を決断したのはそれから4年後の79年オフのこと。これが伝説の伊東キャンプだ。この年、再び5位に沈むと静岡・伊東に江川、西本、中畑、篠塚、山倉、松本など若手の18選手だけを集めると猛烈な特訓が始まった。練習を終えた選手は足腰が立たず宿舎の2階に這いつくばって上がるほど。1000本ノックを受けた中畑はノックバットを振る長嶋の顔を目がけて返球するほど殺気立った修羅場だった。
しかし、彼らの成長に確かな手ごたえを感じたのもつかの間、翌80年も優勝を逃すと解任、第一次長嶋政権はあっけなく幕を閉じた。それから、ふたたび監督の座に復帰するには13年の歳月を要している。第二次政権も合わせ監督の通算成績は延べ15年間で日本一2度、リーグ制覇5度。「通信簿」とすれば微妙な数字だ。
それでも長嶋の功績はこうした上辺の物だけでは測れない。伊東でその後の巨人の屋台骨を背負う若手を育て、後には松井秀喜を「四番千日計画」と称して鍛え上げた。「育成の将」と言うべきか。何より長嶋の周りには人が集まり、テレビの視聴率も藤田、王、原監督の時代より高かった。太陽の明るさと誰にも負けない野球愛。やはり、時代は変わっても「ミスターはミスター」なのである。(敬称略)
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)