記憶に残っても記録には残らない不世出のスラッガー
球界の『無冠の帝王』清原和博が、四国霊場88か所のお遍路に励んでいるという。
2008年に現役を引退。その後は野球評論家やタレントとしても人気バラエティー等で“男気”を見せていたが、近年は週刊誌による薬物疑惑報道や亜紀夫人との離婚などゴタゴタ続き。球場で姿を見ることすらなくなった。
王よりも遠くに飛ばすパワーがあり、長嶋以上にここ一番の強さを有していたのはサヨナラ本塁打の日本記録やオールスターMVP7度の活躍を見れば納得だろう。
スケールの大きさなら三冠王3度の落合さえしのいでいた。それでいて、主要打撃タイトルはゼロ。球界の七不思議という声もあるが、その原因に少しばかり迫ってみる。
PL学園時代に甲子園大会通算13本塁打を記録した超高校級怪物が、西武のドラフト1位指名を受けたのは85年のこと。相思相愛と信じていた巨人の指名を確信していたのに、巨人はよりによってチームメートの桑田を選択。悔し涙と共にプロ人生は始まった。
しかし、そのバットから放たれる輝きは極上のもの。開幕2戦目の南海戦で早くも初アーチを記録すると、あっという間にレギュラーの座をつかみ、この年の成績は打率.304、31本塁打で打点も78をマークと非の打ちどころがない成績。いずれも高卒新人の最高記録としていまだに破られていない。
ところが、いつでも手の届きそうなタイトルは、ついに23年間の現役生活で清原の横をすり抜けて行った。その大きな理由の一つは、西武・黄金時代の管理野球にあった。
当時の指揮官である森祇晶は後に清原についてこう語っている。
「タイトルを獲れそうな時もあったが、彼は自分の記録より勝利にどん欲だった」。それも真実であろうが、額面通りには受け取れない。常勝軍団であるがために、主軸であっても打席ごとに色々な制約と約束事があったのだ。
仮に無死一、二塁で4番・清原に打順が回ってきたとする。バントはなくても右方向への打球を求められる場面。右飛でも最低一死一、三塁の状況を作ることが得点の確立を高くする。もし、現在西武の4番に座る“おかわり”中村のように常にプルヒットができたなら、本塁打の数も増えてタイトルは手中にあったはずだ。
さらに、野球人生の後半に悩まされた故障の多さもある。
特に巨人にFA移籍した96年以降、セリーグの各球団は清原の弱点とされた内角への攻めが厳しくなる。99年には阪神・藪から左手に死球を受けて亀裂骨折、さらにこの年は広島戦の走塁でも右足靭帯を損傷。
オフには肉体改造に着手するのだが、ここにも“番長”らしさが垣間見えた。ケビン山崎に師事を仰いだトレーニングは、上半身の筋肉を中心に鍛え、プロレスラーさながらの『鋼の体』を目指したのだ。一説には、死球をぶつけられてもビクともしない体を欲したという説もある。
だが、一時は120キロ近い巨体に上半身だけを鍛えても、今度は下半身が悲鳴をあげる。晩年は度重なる左ひざの故障と手術に明けくれて引退を余儀なくされて行った。
高校時代を除いては、記憶に残っても記録には残らない不世出のスラッガー。強面のイメージだけが表に出るが、本来は子供のように無邪気で人付き合いと世渡りのへたな不器用な男だ。
本人の夢である球界復帰と監督業の実現は、正直なところ茨の道が待ち受ける。求められるのは、「自己改造」だろう。まだまだ清原ファンは多い。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)