「空白の1日」、そして電撃トレード...波紋呼んだ“江川騒動”
栃木県小山市。今ものどかな田園風景が広がる地方の町は1970年代後半、球史に残る騒動の発信地となった。
自宅での籠城を決め込む江川と、それを取り巻く報道陣。多い時は100人を超すマスコミが張り付く。初代江川番となった我々は朝から晩までひたすら張り込み、ある時は近くの運動公園でのトレーニングに密着。またある時は東北自動車道を南下する車を追ってカーチェイスだ。
行く先は当時の後見役である大物代議士・船田中氏の事務所だったり、法大時代の知人宅に潜伏(?)だったり。どんな些細なことでも江川が動けば新聞の一面を飾った。
世に言う“江川騒動”のきっかけは78年のドラフト会議で阪神が1位指名した時にさかのぼる。
前年にもクラウンライター(現・西武)から1位指名を受けていたが、これを拒否したアマ球界No.1の快腕は、1年間の野球留学のために渡米。志望先はあくまでも巨人だった。
そして迎えた78年、ドラフト直前に帰国した江川は、野球協約の盲点を突き、巨人と電撃契約。いわゆる「空白の1日」である。ドラフト当日は巨人の“抜け駆け”に抗議する意味も込めて4球団が江川を1位指名した末、阪神が交渉権を獲得する。
巨人と阪神の間で揺れる、江川の交渉権を巡った泥沼の争い。特に巨人の横紙破りの暴走劇は他球団ばかりか世間の怒りも買い、一選手の就職は国会でも取り上げられる事件となった。
そして、この問題は想定外の決着を迎える。翌年のキャンプイン前日に阪神のドラフト1位・江川と巨人のエース・小林繁が電撃トレードとなったのだ。
しかし、当時の巨人ナインの江川への反応は冷ややかだった。宮崎への移動直前の羽田空港で阪神移籍を説得された小林への同情が江川への反発を増幅させていた。
こんな状況だから連日の紙面は読売系を除いて「ダーティー江川」の活字が躍ったものである。
第1期江川番と大物ルーキーの間には常に奇妙な緊張感があった。いざ、投げ始めれば非凡な才能は認めるが、入団のいきさつにこだわりを残す記者とそれにバリアを張る江川。
ある遠征先の事。江川から報道陣にケーキの差し入れがあった。ただそれだけで一面である。「あの江川が報道陣を懐柔?」の論調、今となっては笑い話だが、いかにピリピリした空気が流れていたかがうかがい知れる。
あれから35年…。かつての問題児も、5月25日に還暦を迎えた。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)