陸上選手にも闘志を燃やした韋駄天!
大混戦のセ・リーグで、頭ひとつ抜け出したヤクルト。14年ぶりのリーグ優勝に向けて勝利を重ねている。
2013、2014年と2年連続最下位。今季は真中満監督の下、投打ともに立て直してきた。先発陣は、石川雅規が13勝、小川泰弘が11勝。打撃陣は、首位打者を川端慎吾と「トリプルスリー」山田哲人が争い、本塁打(山田)、打点(畠山和洋)、出塁率(山田)、安打数(川端)、盗塁(山田)と個人成績で首位を独占。そんな強力打線のトップバッターを担ってきたのが、俊足外野手・比屋根渉だ。9月中旬以降はスタメンを外れる試合が増えているが、勝利に貢献してきたひとりである。
比屋根は1987年生まれ。大学、社会人を経てのプロ4年目、28歳。沖縄県の東風平(こちんだ)町(現・八重瀬町)出身で、小学校3年生で本格的に野球を始めた。東風平町立東風平中学校の軟式野球部では、主に投手。2年生のとき、チームは県大会優勝、全日本少年軟式野球大会3位という成績を収めている。ちなみに、この大会で優勝したのは二見中クラブ(三重)。エースで主軸は江川智晃(現・ソフトバンク)だった。また、運動神経抜群の比屋根は、3年夏に200メートルで県大会3位。「野球をやってないヤツに負けたくない」と、陸上選手に闘志を燃やしていたという。
中学卒業後は、沖縄尚学高校に進学。1学年下には伊志嶺翔大(現・ロッテ)がいた。比屋根は主に3番・センターとして活躍し、3年生の春夏連続して甲子園出場。春は準々決勝で、野上亮磨(現・西武)がエースの神村学園高校(鹿児島)に負け、夏は2回戦で酒田南高校(山形)に負け、高校野球を終えた。
2005年秋のドラフトは、高校生と大学・社会人に分けて行われた。しかし、比屋根の名前は、野球雑誌のドラフト展望号に見当たらず。高校生ドラフトで1位指名を受けたのは、岡田貴弘(T-岡田/履正社高→オリックス)、平田良介(大阪桐蔭高→中日)、陽岱鋼(福岡第一高→日本ハム)など。ヤクルトの1位は村中恭兵(東海大甲府高)、3位(2位の指名権なしのため、実質2番目)は川端慎吾(市立和歌山商業高)だった。
高校卒業後は、首都大学野球連盟に所属する城西大学に進学。俊足を生かして1番打者を務め、4年秋は打率.421で首位打者。ベストナインには、2年春、4年春、秋の3度、選出された。当時の記録を見ると、同じリーグに所属する東海大学に進学した高校の後輩・伊志嶺と外野手枠を争っていたようだ。
俊足で「得点」を稼ぎチームの勝利に貢献する!
大学卒業後は、宮城県石巻市を拠点とする日本製紙石巻で野球を続ける道を選ぶ。1年目から1番・センターとして活躍し、チーム初の都市対抗野球出場に貢献。しかし、2年目の2011年、東京スポニチ大会期間中に東日本大震災が発生。練習場所もままならず、野球部存続の危機さえささやかれるなか、ボランティア活動に参加。さらに、自らの成長をあきらめることもしなかった。50メートル走5秒9の俊足にパンチ力も加え、「即戦力外野手」として高評価。秋のドラフトでヤクルトの3位指名を受けると、「今度は自分が石巻の人に恩返しする番です」と語った。
プロ1年目の2012年は、「足でプロに入れてもらった」と自ら話したとおり、代走起用から始まり、終盤は1番での出番を与えられる。その俊足から「ボルト比屋根」と名付ける媒体もあった。しかし、9月12日の試合中、ダイビングキャッチをした際に左太もも肉離れを起こし、無念の離脱。43試合出場にとどまったが、11盗塁をマークした。2年目はスタメン起用が増え、63試合出場で、打率.250、14盗塁。しかし、3年目は56試合出場とスタメン定着できず、10盗塁に終わった。
覚悟を決めて迎えた4年目の今季。3~4月はファームにいたが、5月3日から一軍でプレー。7月中旬からスタメン起用が増えはじめ、じわじわと順位を上げるチームを支えてきた。6盗塁は山田に遠く及ばないが、42得点は、山田、川端、畠山、雄平に続く5番目。出塁率は3割を超え、そこからきっちり生還できているのは、盗塁と同じか、それ以上に価値があるといえよう。プロ入り後、さらに磨いたというベースランニングの技術が、花開いたということに他ならない。
巨人との熾烈な首位争いは、いよいよ最終盤へ。自らの武器である足を、チームの得点へと結びつく走塁として磨きあげた比屋根渉。その足がダイヤモンドを駆け抜け、ホームベースを踏んだ先に、14年ぶりのリーグ優勝が待っている。
文=平田美穂(ひらた・みほ)