大谷にメジャーが熱視線
日本ハムは今年、アメリカ・アリゾナ州でキャンプを行った。
これまでキャンプをしてきた沖縄・名護市の球場の老朽化が目立ち、その工事が進まず、やむなく連携球団パドレスがキャンプをしているアリゾナに決まったという。
今回のキャンプ、特に目立ったのは4年目の“二刀流”大谷翔平だった。
打撃練習では、いきなり170メートル弾をライト方向にかっ飛ばした。初のフリー打撃で、80スイング中20本の柵越えは驚きの数字。大勢のメジャースカウト陣が集結し、パドレス球団首脳の一人が「今すぐにでもうちでプレーしてもらいたい」と獲得を熱望した。
もはや大谷をメジャー球団が見守る“品評会”と化していたといっても過言ではないアリゾナキャンプ。投手としても160キロ、打者としても170メートル弾…。大谷の今季が、今から楽しみになる。
社会人よりひどかった!? 東映時代の伊東キャンプ
日本ハムの前身である東映フライヤーズのころは、個性的な選手が多かった。
けんかっ早く、粗野な選手が多かったが、そんなチームを愛するファンも多かったという。張本勲、白仁天、大杉勝男ら、名前を聞いただけでゾクゾクする野球ファンも多いはずだ。
そんな東映時代の春季キャンプは、実に“ひどかった”。
昭和30年代、当時は静岡の伊東市でキャンプを張っていたが、待遇が最悪。食事もお粗末で、グラウンドもでこぼこ。東映が練習したあとに社会人の日本石油がキャンプを行ったというが、明らかに食事は日本石油の方がよかったよいう。
当然、選手からは文句が出る。そこで、1回の食事代が100円上がって喜んだというからすごい。今では考えられない、社会人よりもひどい待遇。それでも、選手たちはそこから這い上がった。
ファンの心を掴んだ“個性派集団”
昭和48年には、こんなキャンプがあった。
この年、東映から日拓ホームに球団名が変更。テレビに押され、映画界が不況を迎えたことで、東映が球団経営から身を引き、変わってプレハブ住宅販売で業績がよかった日拓ホームが買収したのだ。
春季キャンプの場所は変わらず伊東市だったのだが、オーナー主催の食事会が豪勢で選手たちも絶句したという。伊東市すべての芸者が全員集合したかのような豪勢な宴会。1人に1人の芸者が付くほど。「建設業界は別世界だ」と、誰もが思ったという。
翌年、球団名が日本ハムに。キャンプ地も伊東から四国・松山に変更になった。オーナーの意向で、キャンプでの猛練習の疲れを道後温泉で癒やしてほしいという粋な計らいで実現した松山キャンプだった。
まだ北海道へ行く前、日本ハムは東京ドームを本拠地にしていた。地味ではあるが、確実なファンが多かった。パ・リーグが今ほど人気がなかった時代だが、巨人やヤクルトではなく日本ハム、という人もいた。それは魅力的な選手、並外れた個性、けんかっ早い性格など、江戸っ子が好む球団体質だったことが大きい。
あの新庄剛志がMLB挑戦後、日本で選んだチームが日本ハムだった。華があって、チャンスに強かった新庄。2004年には逆転サヨナラ満塁本塁打を放ったのに、一塁走者と抱き合って喜んだ際に追い越してしまい、記録上はヒットで打点1のサヨナラ勝ち。それでも憎めないのが新庄であり、日本ハムという球団なのだ。