白球つれづれ~番外編・KKドラフト~
高校野球の超名門・PL学園が今夏の大阪府予選で華やかな歴史の幕を閉じた。現在でも松井稼頭央(楽天)、福留孝介(阪神)、今江敏晃(楽天)や、メジャーリーグのドジャースで活躍する前田健太らOBがいるが、一時期はプロの世界でも最大派閥を誇ったほどの野球部の休部(実質上の廃部)は寂しい限りだ。
このPLを舞台に「伝説の仕事人」が激突したのは1985年のことだった。巨人スカウト・伊藤菊雄vs西武管理部長・根本陸夫。対象者は桑田真澄と清原和博のスーパースター候補たちとあって役者は揃っている。おそらく過去のドラフトの中でも最大のドラマと言っても過言ではないだろう。
甲子園の申し子たち。桑田と清原は高校1年から聖地で輝き続けた。抜群のコントロールと球威でエースの座をほしいままにした桑田は打撃でも非凡な才能を見せてきた。対する清原は高校生離れした体躯からプロ顔負けの本塁打を量産した。だが、ドラフト会議を前に両雄の進路希望は別の道にあった。
どよめくドラフト会場
桑田が「東京六大学の早大」と進学希望を明らかにすると、清原は「阪神か巨人。それ以外なら社会人野球」と公言。こぼれ話をここで挟む。当時、巨人の番記者を務めていた筆者も秋季キャンプを行っている宮崎で王監督が記者の求めに応じて「清原和博君へ 王貞治」と色紙に書いている現場に立ち会った。それから、数日後にどんでん返しは起こった。
「読売 桑田真澄 17歳 投手」ドラフト会場に何とも言えぬどよめきがわきおこった。その直後に行われた清原の指名では阪神、中日、日本ハム、近鉄、南海、西武の6球団が競合の末、西武・根本管理部長が当たりくじを引き当てた。
この時、巨人はなぜ清原でなく桑田指名に踏み切ったのか?30年以上たった今でも諸説ある。その中でも説得力があるのは巨人の「桑田、清原両獲り作戦」と、これを事前に察知した根本による切り崩し策である。
敏腕スカウトの秘策と巨人の思惑!?
当時、巨人の関西地区担当だった伊藤菊雄は敏腕スカウトで鳴らしていた。その後のスカウト部長時代も含めて獲得した選手は小林繁、西本聖、水野雄仁、村田真一、川相昌弘ら今も巨人の中枢にいる男たちも少なくない。
この伊藤がPLに食い込むために取ったウルトラ策は、何と自分の息子を同校の野球部に進学させたこと。捕手として桑田とバッテリーを組むこともあった。スカウトと高校生の接触は今でも禁じられているが、同じ野球部の父母なら止められない。さらに伊藤自身もPL教団の信者になったという噂も流れた。
加えて、当時の野球部には監督の中村順二以外に選手の獲得から進路まで強い影響力を持つAという男がいた。彼がいち早く桑田の本心は巨人にあり、清原の手前上、言い出せないことを察知。伊藤とのパイプを通じて、あわよくば清原を1位指名して、桑田2位指名で両獲りを画策したというのだ。
球界の寝業師の一手
これに対して「球界の寝業師」と他球団から恐れられていたのが根本だ。1978年にクラウンライターから西武が球団を買収。初代の西武監督からフロントに転出した根本の辣腕ぶりは語り草になっている。
78年のドラフトで来季から中日の新監督に就任が決まった森繁和を1位で指名するとドラフト外で松沼博久、雅之の即戦力兄弟を獲得。80年には石毛宏典1位にドラフト外で秋山幸二、81年は西武の練習生として囲い込んでいた伊東勤をトップ指名して6位には社会人野球の熊谷組(現在は廃部)への入社が確実視されていた工藤公康を上げて入団にこぎつけている。
球界の盟主を認ずる巨人に対して日の出の勢いで新盟主の座をうかがう西武とのドラフト戦争こそが「KK争奪」をヒートアップさせる因ともなっていた。
その根本が「巨人は投手を欲しがっている。桑田の指名もあり得るぞ」と記者陣にしゃべりだしたのはドラフト直前のことだ。つまり巨人のひそかな野望である清原、桑田の両獲りを阻止するために情報をリーク。ライバルは桑田の一本釣りを決断するしかなかったのだ。
かたや、根本は自らの手で6分の1の清原指名を獲得してその後の黄金時代のスタートを切った。「必殺仕事人」が1年、いや数年の策を巡らせて挑むドラフト。伊藤も根本も今は泉下に眠る。あれだけ火花がバチバチ飛んだ戦いはもう見られないのだろうか?
文=荒川和夫(あらかわかずお)