白球つれづれ~第32回・荒川博~
不世出の大打者・王貞治に「一本足打法」を伝授し、世界のホームラン王に育て上げた男...。
V9巨人の打撃コーチだった荒川博が4日、心不全のため都内の病院で亡くなった。享年86歳。ここ数年は心臓を患い入退院を繰り返していたというが、当日の昼にはそばを食べに出掛けている。
夕方からは古巣・巨人のOB会にも出席予定だった。体調の急変を聞き、王も病床で最後を看取っているのだから、ある意味では幸せな大往生だったと言えるだろう。
「一本足打法」のルーツ
荒川と王の出会いは、今から60年以上も前にさかのぼる。
毎日オリオンズ(現ロッテ)の選手だった荒川が自宅近くを散歩中、公園で少年野球に興じていたのが、当時中学2年の貞治少年。左投げ右打ちだった王にぎこちなさを感じた荒川が「左で打ってごらん」とアドバイスすると、即座に快音を発したとされる。
その頃の王には、まだプロ野球の夢などない。それどころか王家では、長男の鉄城は医学の道に、次男の貞治はエンジニアの道に進ませるのが基本方針。都立の工業高校に進学していれば現在の王はいなかったはずで、そこが“教え魔”荒川の出発点でもある。
荒川の母校でもある早稲田実業高に入学してからの王の野球人生は、今さら語るまでもない。わずかなピンチは巨人に入団した直後の数年だ。
高校球界の逸材もプロの壁は厚く、ファンからは「三振王」と野次られる日々が続いた。長嶋茂雄と並ぶスターに育てたい当時の川上哲治監督が「どこかにいいコーチはおらんのか?」と悩んでいた時、当時の主力選手だった広岡達朗が推薦したのが荒川。早大時代のチームメートでちょうど現役引退を決めていた。
そうして1961年のオフからスタートしたのが「荒川道場」だ。自宅に王を呼び寄せると、連日の猛特訓。「王は打つときに手が動く欠点があったうえにバランスも悪い。それなら片足で立てばいい」。1日のスイングは1000回を超え、集中力を高めるために日本刀による素振りも続けられた。ここから、かの有名な「一本足打法」が誕生する。
「最愛の息子」を襲った悲劇
翌年には早くも本塁打、打点の二冠に輝いた王だが、この師弟コンビに妥協はない。ゲーム後に一杯飲んだあとも招集はかかり、時には夜中の1時を過ぎても指導は終わらなかったという。
当時の荒川家には巨人の僚友である黒江透修や末次利光らも集まったが、荒川と王の稽古が始まると「声ひとつ立たず、恐ろしいほどの緊張感があった」と口を揃える。
そして指導者・荒川の野望は、世界の王を育てても満足することがなかった。
次の夢は、養子として迎えた荒川尭を名選手に育て上げること。長野の中学生の素材に惚れこんだ養父の期待に応え、早実高から早大に進んだ堯は、東京六大学のスターとして1969年のドラフト会議の目玉となる。
博の関係と神宮での活躍を夢見た尭は、「巨人、ヤクルト以外の指名なら浪人」を発表。しかし、現実は大洋(現DeNA)が1位指名。早々に入団拒否の姿勢を見せると、この騒動の余波で翌年早々に暴漢に襲われ、左後頭部骨折の重症を負ってしまう。
その後、1970年秋に大洋へ入団してからすぐヤクルトへ移籍という強行策。入団2年目の1972年には打率.282、18本塁打でクリーンアップに定着したが、その翌年には事件の後遺症で視力が低下し、さらに2年後には現役引退に追い込まれた。
母校の奮闘に期待
「最愛の息子」を第2の王に育て上げる夢は叶わず...。ヤクルトの監督などを歴任した晩年は、少年野球を指導するかたわら神宮球場に隣接するゴルフ練習場で片山晋呉や上田桃子などのプロゴルファーまで教えた。
もともと合気道に精通していた荒川は、「臍下丹田(せいかたんでん)」を始めとした「気」の部分は野球でもゴルフでも共通すると諭す。近頃は「桃子を賞金女王にする」が口癖だったという。
さらに、でっかい野望には続きがあった。昨年夏、母校の早実が甲子園出場。1年生の怪物・清宮幸太郎を見た荒川は小躍りした。
「生きていて良かった。清宮を見て長生きしたくなった」。
選手よりも、指導者として評価された打撃の名伯楽。清宮2度目の甲子園となる来春のセンバツ大会を見ることは叶わないが、天国できっと打撃指導が始まるに違いない。合掌。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)