白球つれづれ ~第27回・栗山英樹~
就任5年目にしてついに日本一監督になった日本ハム・栗山英樹。指揮官の最も尊敬する野球人が三原脩であることは有名だ。
元西鉄ライオンズ(現西武)の指揮官として、1956年から宿敵・巨人を相手に3連覇。1960年には万年最下位だった大洋ホエールズ(現横浜)を奇跡の日本一に導くなど、監督通算で挙げた勝ち星は実に1687勝。「智将」、「魔術師」などの名をいただく名将である。
栗山は毎年、都内にある三原の墓へと足を運んでいる。監督就任前の評論家時代から、三原の娘婿で「怪童」と呼ばれた中西太の自宅を訪ねては三原が書き残した野球メモを書き写し、勉強に余念がなかったと言う。
目指した「三原野球」の結晶
その「三原野球」を最も具現化したのが、広島を撃破した日本シリーズ第6戦だった。
勝負は日本一を決定づけた8回。二死走者なしから、広島のセットアッパーであるジャクソンを西川遥輝以下の3連打で攻め立て、中田翔の押し出し四球で勝ち越し。
さらに投手のバースがタイムリーを放つと、トドメはレアードの満塁本塁打で大量6点を挙げて完勝した。
この場面で最も注目を集めたのが、中田の打席の時にネクストバッターズサークルに大谷翔平を立たせたことだろう。試合後、栗山は「全く大谷を使う気はなかった」と相手の動揺を誘うための作戦だったことを打ち明けている。
二死から西川が出塁した時には走ると見せかけてジャクソンを徹底的に揺さぶり、ストレート主体の投球を読み切って後続の連打につなげている。
また、その前の押し出しで1点リードしたとはいえ、そのままバースを打席に送った決断も見事。大谷のダミーは相手への「揺さぶり」。大量点を演出した西川以下の連打は「勢い」。そしてバースの打席は次の守りも計算した「したたかさ」。これらはすべて三原が駆使した采配を彷彿させた。
もうひとつのポイント
もうひとつ加えるなら、栗山の「胆力」である。この試合の勝敗を分けたもうひとつのポイントが、6回裏の攻防だ。
1点を追う広島に対し、日本ハムは左の松山竜平封じに左腕の石井裕也を起用するが、中前打を許す。
無死一塁となり、ここで救援に起用したのはなんとルーキーの井口和朋。いかにも荷が重い出番で、案の定制球を乱して四球を与えてしまう。
犠打で二、三塁となり、同点どころか逆転ならシリーズの流れも左右しかねない局面。それでもベンチは続投を決断、下水流昂の内野安打で同点は許したものの、傷口は最小限で留めた。
もし仮に他の監督が指揮を執っていたら、勝負所でルーキーを起用し続けただろうか? 次の得点がどうしても欲しい場面でバースに打席が回ったら代打を送らないだろうか...?
「欠点を見る前に長所を生かす」
前述の中西太は、第5戦の栗山用兵に三原マジックを見た。この試合も新人の加藤貴之を先発起用したものの、早々と打ち込まれて2回途中で降板。それでも、メンドーサのロング救援でピンチをしのぎ、勝利に結びつけた。
「欠点を見る前に長所を生かす」――。
先入観を持たず、誰も使わないような戦術を駆使した三原野球は栗山に受け継がれている。
50年以上も昔の指揮官なのに、三原は現代に通ずる数々の革新を成し遂げている。西鉄黄金時代は「流線形打線」と呼ばれる攻撃型オーダーを組んだ。手堅くバントで繋ぐのではなく、二番に強打の豊田泰光を配して相手にプレッシャーを与えた。
この形は近年のメジャーリーグで主流となりつつある考えであり、昨年日本一になったヤクルトが川端慎吾を二番に起用した先例でもある。
もうひとつの代名詞は「遠心力野球」だ。選手の自主性に任せてその能力を最大限に生かす。放任主義のようだが、当時の西鉄では時によって選手同士でサインを交換して最善の策をとるケースもあったという。それくらいのレベルに選手を育て上げれば、へたな縛りは必要ないということだろう。
名将へのステップ
日本シリーズのような短期決戦では、勝利の鉄則がある。調子の良い選手を見極めて早めに仕掛けることと、ラッキーボーイを作ること。
今シリーズの日本ハムは、ストッパーのマーティンを故障で欠くなど苦しい台所であったが、中継ぎのバースが3勝を挙げるなどラッキーボーイとなった。攻撃陣でも、陽岱鋼の不振を岡大海ら若手がカバーしている。
戦いを重ねるごとに動き、仕掛けていった栗山ファイターズの勝利は必然だった。
栗山と三原の結びつきはまだある。
日本ハムの初代球団社長は三原であり、栗山が背負う背番号「80」というのも、三原が最後に指揮を執ったヤクルト監督時代と同じ。さらに今や大谷の代名詞となった「二刀流」も、1960年代に近鉄を率いた三原が永淵洋三を投手兼野手として起用している。
そして監督就任5年目にして、初の日本一。栗山がまた一歩、名将に近づいた。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)