白球つれづれ~高く険しいプロの頂へ~
プロ野球界は、最大のクライマックスである日本シリーズが終了すると「人事の秋」本番を迎える。すでに戦力外通告がなされ、一方ではドラフト会議も終了した。失意と希望が交錯する分岐点。各チームは新入団選手の発表にトレードやFA(フリーエージェント)選手の獲得戦などを経て新たな陣容で来るべき新シーズンの骨格を作り上げる。監督の交代劇があればコーチ陣の顔ぶれも大きく変わる場合が多い。まさに人間模様が色濃く浮かび上がる季節である。
そのドラフト。今年も87選手が指名を受け、育成枠を含めると115人がプロの門を叩くことになる。単純に計算すると10年間で1150人ほどが入団し、一軍のレギュラー(投手なら先発、中継ぎ、抑え)に定着できるのはほんの一握りだ。なぜなら巨人の坂本勇人やヤクルトの山田哲人らの例を引くまでもなく若くしてレギュラーを獲得した選手がいる場合、大ケガやトレードでもない限り、そのポジションに空きはない。
投手は故障や好不調の波があって入れ替えが頻繁に行われるケースは多いが、先発ローテーションの一角に定着となるとこれまた限られてくる。今季のルーキーを見ても一軍定着組は阪神・高山俊と楽天・茂木栄五郎ら数選手だけ。やはりプロの頂は高く険しい。
育成の難しさ
ドラフト指名を受けた直後の若者の目は輝いている。「日本を代表するピッチャーになりたい」、「1日も早く一軍に定着して親孝行したい」、志は良し、である。それを否定するつもりもない。だが、30年以上も同じ光景を見ている者として老婆心ながら言いたいことがある。成功する選手は入団後に自らの手で何かをつかみ取っている。
あるスカウトが選手育成の難しさを語った。「ドラフトの1位だろうが下位指名だろうが、みんなアマ時代は“お山の大将”なんだよ。問題はその高い鼻をへし折られたあとにどう自分と向き合っていけるか」。
あの名球会会員も……
通算251勝をあげて、西武の黄金期のエースであった東尾修の入団直後の古い話を紹介する。1968年西鉄(現西武)のドラフト1位で入団した東尾。その年のセンバツ高校野球で当時は無名の和歌山・箕島高を初のベスト4に導いた立役者だから今年に置き換えれば寺島成輝(履正社からヤクルト1位)や今井達也(作新学院から西武1位)らの「高校ビッグ4」といった立場か。ところが翌春のキャンプでいきなり震え上がった。
ブルペンに入って投球練習を始めたところ隣にやってきたのは池永正明。下関商から入団すると4年間で81勝をマークした絶対的なエースだ。球威からコントロールまですべてに格の違いを見せつけられて自信を喪失。1年目に野手転向を申し入れている。
だが、失意のドラ1男に「時の運」と「人の運」が味方する。やがて西鉄に、八百長騒動に端を発した「黒い霧事件」が起こり、主力投手らが次ぎ次と追放。人材不足だから自信喪失の東尾でも投げざるを得ない。さらに当時の投手コーチである河村英文からシュートの投げ方を伝授されることで投球の幅が飛躍的に広がった。
「ストレートは全盛期でも145キロくらい」という東尾はシュートで右打者の内懐をえぐり、伝家の宝刀スライダーで仕留める投球術を習得することで成功者の仲間入りを果たすことが出来た。
努力という名の鉄則
2年連続でトリプルスリーの偉業を達成したヤクルトの山田も入団当初はプロの高い壁にぶち当たった。これを克服できたのは、名伯楽・杉村繁との二人三脚の猛特訓によるもの。10種類以上に及ぶトス打撃で鋭いスウィングと体重移動を習得。今では人より早く球場入りしてもこの練習は欠かさないという。
プロに入団する選手は程度の差はあっても間違いなく天賦の才は有している。だが、挫折を味わった後、自信喪失のままファームでくすぶるか、少ないチャンスをモノにして自らの手で這い上がってくるか。そこにはよい指導者と巡り合う「人の運」やちょうどチームの若返り策といった「時の運」なども影響してくるのは間違いない。しかし、運は努力なくしてつかめないのも野球界の鉄則である。すでにプロとしての戦いは始まっている。
文=荒川和夫(あらかわかずお)