ホークスに入団後、日本人最速の150セーブを達成
研鑽された技術のぶつかり合いである勝負。そこから離れた時に放たれた野球選手の“ことば”——。発言に注目すると彼らの別の一面が見えてくる。
「オリックスに取ってもらった身――。まだ恩を返せていない」
2014年、馬原孝浩はFA権を行使せず、オリックス残留を決めた。この発言に至るまでの彼の球歴をたどってみよう。
馬原は九州共立大学から2003年ドラフト自由獲得枠で福岡ダイエーホークス(当時)に入団。1年目から即戦力と期待されるも、3勝に終わった。2005年もシーズン当初こそ先発で起用されるが途中でリリーフに転向し、22セーブを挙げる。その後、抑えに定着し毎年安定した成績を挙げ、2010年には日本人最速となる267試合目での150セーブを達成。「ホークスの守護神」と呼ばれた。
2008年の右肩炎症での離脱を除けば順風満帆なプロ野球生活。だが、故障が馬原を襲い、立場は一転する。2011年から右肩違和感に悩まされ、不安定な投球が続き、翌年には右肩の手術を行う。リハビリに半年を要し、このシーズン、馬原の登板はなかった。
2013年、馬原はオリックスに人的補償で移籍する。元守護神のプロテクト漏れには球団内外から疑問の声もあった。
右肩痛から奇跡の復活を遂げるも……潔いよい幕引きを選択
馬原はマジメ過ぎるほどの男だ。
練習態度、野球に取り組む姿勢は「手本になる存在」と球団から太鼓判を押されるほどである。ホークスの若手やオリックスの西にも慕われていた。森脇前監督は、「馬原は自分の体はチームのためにあるという考えの持ち主で、肩が壊れても投げると言う男」と評している。
本人も「日頃のトレーニングもケアも、僕はやるべきことを全てやっているというプライドがあります」と言うほどの練習の虫だった。先発、中継ぎのバトンを受け取り、勝利に導く守護神の座は、自分を追い込こむことのできる馬原だから務まったのだ。
オリックス移籍1年目は、またもや右肩のケガに泣き、わずか3試合の登板に終わった。だが、2014年、馬原はセットアッパーとして奇跡の復活を遂げる。55試合に投げ、33ホールドポイント、リーグ5位の立派な成績を挙げた。
この年FA権を取得した馬原の去就は注目されていた。「地元ホークスに戻るのではないか」とウワサされていたのだ。だが、冒頭の発言通りオリックスに残留。また、複数年も出来高も断り、サインをした馬原に新聞では“男気契約”の文字が踊った。
マジメで男気のあふれる男は、去り際も見事であった。満足いく成績が残せなかった2015年のシーズンオフ、馬原は球団から40%以上の減額制限を通告されると自由契約を選択する。
12月に入り、馬原は引退のコメントを出した。
「シーズンが終わって2カ月間、体の状態と照らし合わせ、自分のベストパフォーマンスができなくなったと判断した」
馬原はまだ34歳。現役にしがみつく選手が多いなか、潔くボールを置くことを決めた。引退試合も引退会見もなく大物選手がひっそりとユニフォームを脱ぐ。それも馬原らしい幕引きである。
文=松本祐貴(まつもと・ゆうき)