田中が受け継いだ偉大な「2」
今年の広島は開幕から1番打者にプロ3年目の田中広輔が名を連ね、2番に菊池涼介、3番・丸佳浩と同学年の選手が1番から3番を打つオーダーとなっている。
開幕カードとなった中日3連戦ではわずか1安打に終わった田中だったが、続く巨人との3連戦では3試合連続で複数安打と結果を残した。
田中は昨年、開幕から正遊撃手として出場を続け、チームトップの149安打を放つなど、飛躍のシーズンとなった。球団側もその活躍から背番号を「63」から「2」に変更。期待の大きさを感じさせる。
広島の「1番・ショート」で背番号は「2」…。その響きを聞くと、ある一人の選手が浮かび上がってくる。1980年代に赤ヘル打線のリードオフマンとして活躍した高橋慶彦だ。
転機となった“スイッチ転向”
東京・城西高の3年夏に甲子園出場した高橋は、甲子園で見せた本塁への走塁がキッカケで1974年のドラフト3位で広島へ入団。高校時代の投手から野手にコンバートされる。
プロ1年目の春季キャンプ、周囲のレベルの高さに「とんでもないところへ来てしまった」と自信喪失になった。そこに「プロは足だけでもメシが食えるんだぞ」とアドバイスを送ったのが、後に監督となる古葉竹識だった。
その言葉に勇気付けられた高橋は、プロ3年目の1977年には一軍で58試合に出場。14盗塁と結果を残し、台頭する。
オフにはその足を生かすべく、スイッチヒッターに挑戦。元々右打者だった高橋は左でバットを振り込み、寮に併設された室内練習場で山本一義コーチとマンツーマンで猛練習に取り組んだ。
“赤ヘル・機動力野球”の象徴的存在へ
1978年、背番号が2に変わった高橋は「1番・ショート」としてレギュラーに定着。打率.302をマークして飛躍のシーズンとなった。
さらに翌1979年は、高橋にとって印象に残る一年となる。6月6日の中日戦でヒットを放ったのを皮切りに、毎日安打を続けていく。そして迎えた本拠地・広島市民球場での巨人戦。初回に巨人先発・新浦寿夫からレフト前ヒットを打ち、プロ野球新記録となる「33試合連続安打」を達成した。
前年に続き打率3割を記録し、55盗塁で初のタイトルとなる盗塁王を獲得。近鉄との日本シリーズでも打率.444と打ちまくり、シリーズMVPを受賞した。
翌1980年も2年連続で盗塁王となり、チームの連続日本一に貢献。セ・リーグを代表するショートへと成長を遂げた。
その後、高橋はゴロを打ってヒットを狙うスタイルから長打を狙うスタイルへと打撃を変えていく。
1983年にはそれまで1ケタ台だった本塁打数が24本と飛躍的に増え、そこから4年連続で20本塁打以上をマークする。
長打力が増したことにより、1番だけでなく時には3番打者も任され、1番・山崎隆造、2番・正田耕三、3番・高橋とスイッチヒッターが3人も並んだ広島の上位打線は赤ヘル・機動力野球の象徴だった。
1989年のオフにロッテへ移籍。広島を離れると、最後は1992年に阪神で18年間の現役生活を終えた。それでも、多くのファンがイメージするのはやはり「広島の1番・ショート」で「背番号2」をつけた高橋慶彦の姿だ。
偉大なる先達にどれだけ近づくことができるのか。新たなる広島の“背番号2”田中広輔の一挙手一挙足に注目してみたい。