柔道から野球へ、そして、投手から捕手へと転向
2014年シーズン、2年連続となる4位に沈んだ中日。谷繁元信兼任監督の奮闘も実らず、Aクラスの常連が2年連続Bクラスという屈辱を味わった。いくつかある補強ポイントの中で、誰の目にも明らかなのが「ポスト・谷繁」、捕手のポジションだろう。昨季は開幕からマスクをかぶり、91試合に出場した谷繁。44歳の兼任監督をおびやかす存在が、またしても確立しないシーズンだった。
そんな中において期待したいのが、大学卒6年目を迎える松井雅人。昨年は、谷繁に次ぐ67試合出場。まずは「ポスト・谷繁」の一番手としてアピールした。
松井は1987年11月生まれ、今年28歳を迎える。小学校1年生で始めたのは柔道。2年生になると、「粕川リトルタイガース」に入団して野球を始めた。柔道は6年生まで続け、3年生と5年生のときは県大会で優勝しているそうだ。
前橋市立粕川中学校では、軟式野球部に所属。小学生時代から引き続き、投手を務めた。関東大会、全国大会出場の記録は残っていないが、群馬県は中学軟式野球が盛んな地。前橋市も例外ではなく、松井が在籍していた3年間、前橋市の中学校が3年連続で県大会決勝進出。関東大会へと駒を進めている。
中学卒業後は、県内屈指の強豪・桐生第一高校へ。入学前、硬球に慣れるための練習をしているとき、当時の監督に捕手転向を命じられたという。強肩と冷静な判断力を買われてのことだったそうだが、捕手・松井の野球人生がスタートした。そこから大学時代まで、テレビで見て参考にしたのが谷繁だったという。
努力が実り、2年春、夏の甲子園出場。同学年の投手との「2年生バッテリー」が話題となったが、いずれも初戦敗退。主将となった3年は、夏の県大会ベスト4。甲子園1勝を果たせず、高校野球生活を終えた。
なお、当時の野球専門誌を見ると松井雅人の名前はない。隣の埼玉県に、今成亮太(浦和学院高/現・阪神)、靏岡賢二郎(春日部共栄高/現・DeNA)という超高校級捕手がふたりもいて、大いに注目を集めていたのである。
「ポスト・谷繁」ではなく、本人を含めた正捕手争い勃発!
高校卒業後は、群馬県にある上武大学へ。
東京の大学からも誘いがあったそうだが、名将・谷口英規監督の熱心な誘いもあって地元を選んだ。1学年上に井納翔一(現・DeNA)、同学年には同じ群馬の榛名高校から入学した安達了一(現・オリックス)がいるなど、ハイレベルなチーム。「中央の大学には負けない!」という気持ちで野球に取り組んでいたという。
松井は2年春から正捕手の座をつかみ、2年、3年の大学選手権ベスト8の原動力に。打順は2番など上位で、2年秋、3年春のリーグ戦では打点王を獲得。遠投115メートルの強肩に、50メートル走6秒0の俊足。4年生になると120人以上の部員をまとめる主将となり、走攻守に加えてキャプテンシーも磨いた。
4年秋の明治神宮大会は準優勝。大会前に行われた2009年ドラフトで、中日に7位指名された。大学生としてかなり低い順位だが、「プロ野球には憧れていたので、本当に光栄です。活躍できるように頑張ります」とコメントしている。
1年目はキャンプから1軍に帯同したものの、出場は13試合。2年目は10試合、3年目はわずか4試合。お手本としてきた谷繁の壁は、想像以上に厚かった。
それでも、信頼の兆しは見えている。昨年、開幕2連敗を喫して迎えた対広島第3戦。谷繁監督が捕手・谷繁を外し、起用したのが松井だった。結果は6対0。俊敏な動きでファウルフライを捕り、打っては2安打2打点と大活躍。谷繁監督に初勝利のウイニングボールを手渡した。
お立ち台では「キャッチャーとして失点を一つでも減らして、チームの勝利に貢献したい。監督を楽にさせたいです」とコメント。谷繁監督は試合後「申し分ないでしょう」と松井をねぎらった後、「世代交代とかそんなのは関係ない。結果を出した力のある者がポジションを奪う。そういう野球をします」と宣言した。
松井にとって幸先よく始まった昨季だが、終わってみれば「結果を出した力のある者」は谷繁だった。打率.176も負けている。11月、400万円アップの1400万円(推定)で契約更改した後、「監督が兼任されているポジションを取るという気持ち、そこを目指してやらないといけないと思っています」と気を引き締めた。
ポジションを争ってきた田中大輔はオリックスに移籍したが、昨年、途中加入した武山真吾は愛知県出身で地元の声援が大きい。谷繁兼任監督も元気だ。「ポスト・谷繁」争いではなく、本人を含めた正捕手争い。2015年、そして、これから先のチームの浮沈を占う大事なシーズン。
松井雅人にとって、本当の勝負の年になりそうである。
文=平田美穂(ひらた・みほ)