“俺たちの時代”80~90年代のプロ野球を語り尽くそう -80年代40歳現役選手編-
山本昌(中日)が今年で50歳となるのに現役を続行している今のプロ野球。また、コーチ兼任捕手で現役を続けている中嶋聡(日本ハム)は今年46歳、谷繁元信監督兼任捕手(中日)は45歳。トレーニング方法や選手の意識の向上などにより、いまや40代のプロ野球選手は、貴重とはいえそれほど珍しくなくなってきている。
ところが、それが我が1980年代になると少々事情が異なる。当時は、良くも悪くも「オフは休むもの」という感覚が蔓延していた時代。選手の気質的にも“アスリート”というよりは“勝負師”というイメージの顔が並び、体力より駆引きと技術が重んじられる傾向があった。お腹がポッコリしながら好成績を挙げ続けていた選手もいたほどだ。とはいえ、プロ野球の体力的なレベルはグングン上がりはじめていた時代でもあり、選手寿命が短かったのはある意味当然だったのかもしれない。
しかしながら!そんな中にも頑張って40代まで現役を続けた選手がわずかながらいた。それは、現在の尺度にあてはめたら山本昌クラスの“レジェンド級”である。今回はそんな希少な面々をランキングにして紹介していこう。
45歳まで生涯現役を通した野村 若松は代打の切り札として鮮烈な印象を残す
まず、第1位は野村克也(元南海他)の45歳だ。南海の現役選手時代は戦後初の三冠王を獲得し、捕手ながら4番打者、さらに70年からは監督まで兼任するというスーパーな活躍ぶりだった。ただ、その一方、当時は人気がまったくなかったパ・リーグということで、“表”にあたる巨人の長嶋茂雄、王貞治のようには注目されず。本塁打や打点など、自らが打ち立てた打撃部門の通算記録もことごとく王に抜かれてしまって2位が多く、最後の砦であった通算最多試合出場数3017も今シーズン谷繁に抜かれるのは確実という状況も。功績の大きさに対する“不憫度”なら堂々1位としていいかもしれないほどだ。
とはいえ、野村の特筆すべき点はまだまだ数多く残されている。そのひとつが、スキャンダルを発端に南海を解任されたあとも「生涯一捕手」を宣言し、現役を続行したところだ。このときすでに42歳。過去に築いた実績や立場を考えたら、もう誰も獲得など考えそうにないところだが、当時ロッテの監督だったのは400勝投手の金田正一というそれ以上の大物だったことで野村を招聘することが実現された。その後、さらに西武も含めて3年間現役を続けたのは掛け値ナシで感心させられるものがある。
続いて第2位は若松勉(元ヤクルト)だ。生涯打率.319を誇る安打製造機は87年から代打の切り札に転じて42歳まで現役を続けた。レギュラーだった頃の活躍ぶりはもちろん賞賛に値するが、筆者は代打時代の活躍ぶりもかなり強烈なインパクトとして記憶に残っている。
ほぼ代打専任になった87年の打率が.377、翌88年が.348。引退を決めた89年こそ.224と落ちたが、代打でこの数字はかなり高い!あくまで印象としてだが、実際出てくるといつもヒットを打っているように思えたほどだった。しかも、犠牲フライが欲しい場面では、きっちりとバットの上にボールを乗せるようにして、まさに“運ぶ”ようなテクニックを見せることも。打席に入る際にはスタンドから「必殺仕事人」のテーマが流れ、自分の体よりもピッチャー側にバットを差し出すあの構えは、今思い出しても本当に格好良かった。
3位は打てなくても42歳まで現役を続けた男 ダンプ辻は中嶋聡のルーツ?
そして、いつも“異質枠”としている第3位は辻恭彦(元阪神ほか)。阪神時代に江夏豊のボールを受けるときに、田淵幸一をファーストに回して出場したことも多かった「江夏の恋人」といわれる名捕手だったが、体の方も頑丈なことで有名で、その後、大洋に移籍して42歳まで現役を続けた。
阪神では辻佳紀という同性の捕手がいたため、「ダンプ辻」というニックネームがつけられたが、柔和な雰囲気は今ならゆるキャラになっていたかもしれない。実際、人気も結構あったようで、横浜スタジアムに大洋戦を見に行った際などは、「福嶋(久晃・当時の正捕手)引っ込めー! 辻を出せー!」というオッサンのヤジを聞いたものだ。
そして、ダンプ辻のすごいところは、異常なほど低い打撃成績である。通算打率は、なんと.209。ここまで打てないのに22年間も現役を続けており、当時はいかに捕手が守備面の素養を重要視されていたかがわかる数字でもある。この流れはある意味、先述の中嶋に引き継がれているといえるかもしれない。
文=キビタキビオ(きびた・きびお)