一軍昇格即4打数4安打4打点のスラッガー
交流戦で大失速したDeNAに代わり、セ・リーグ首位に立った巨人。しかしながら、交流戦終了時点で34勝32敗。ダントツの強さとは言い難い。
6月5日からのソフトバンク3連戦で3連敗。続く日本ハム戦で2連敗を喫し、今季ワーストの6連敗かと思われた11日の第3戦で救世主となったのが、中日から移籍した堂上剛裕だった。
前夜に一軍昇格が決まり、試合当日、札幌ドームへ移動。8番・レフトで先発出場すると、4打数4安打4打点。内容はシングル、シングル、スリーベース、ツーベース。ホームランが出ればサイクルヒット達成という大爆発だった。試合後は「自分でもビックリしています。ファームで結果を残せていなかったのに呼んでもらったので、何とかしようと思っていました。本当に感謝しています」とコメント。原辰徳監督は「大きな仕事をしてくれた。ファームは正しい練習をしている」と褒めたたえた。
堂上は1985年5月生まれ、愛知県春日井市出身。プロ12年目を迎えた30歳だ。父親は中日の投手だった堂上照氏。3歳下の弟・直倫(中日)とともに、幼い頃から野球に親しんだ。小学生時代は「名古屋北リトルリーグ」で硬式野球に親しみ、中学時代は、同じく硬式の「名古屋富士ボーイズ」でプレー。年齢は離れているが、こちらは浜田達郎(中日)も所属していたチームである。
中学卒業後は、全国屈指の強豪・愛工大名電高校(愛知)に進学。甲子園には2年春(1回戦敗退)、3年春(3回戦敗退)、3年夏(2回戦敗退)と計3回出場している。当時の東海地区では中京高校(岐阜)の中川裕貴(元中日)と城所龍磨(現・ソフトバンク)が、俊足巧打の内野手として注目を集めていた。対する堂上の売りは長打力。「左のスラッガータイプ」と才能を評価されていた。
2003年秋のドラフトは、大学・社会人選手を「自由枠」として2名まで獲得できた。目玉は鳥谷敬(早稲田大→阪神自由枠)、内海哲也(東京ガス→巨人自由枠)など。そんな中、中日は自由枠を放棄して中川を1巡目指名。堂上は6巡目で中日に指名され、プロ入りを果たした。中日のホームページには、ニキビ面の写真とともに「1年目から一軍にあがって、早く中日の中心選手になれるよう頑張ります」という入団会見時のコメントが残っている。なお、当時、父・照氏は選手寮「昇竜館」の寮長を務めており、親子鷹(竜)として話題になった。
戦力外通告、育成契約、支配下登録、そして……
プロ1年目となる2004年は一軍出場なし。二軍でも33試合出場にとどまったが、打率.273。翌2005年は一軍初出場(1試合のみ)、二軍では78試合で打率.298。3年目の2006年も二軍で練習を重ねた。そして、同年秋のドラフトで、3歳下の弟・直倫が中日の1巡目指名を受けて入団。父と兄弟二人が同じプロチームに所属する珍しい例となった。
当時、直倫が尊敬する人として名前をあげていたのが兄・剛裕。「小さい頃から憧れの人で、練習量はすごかった。『あれだけやらないとうまくなれないのか! 兄貴を追い越すために、もっと頑張らなくちゃ!』という気にさせられました。兄のおかげで、ここまで来られたと思っています」と語っている。
後を追ってきた直倫の入団に刺激を受けたかのように、4年目の2007年は一軍出場37試合と大躍進。8月の巨人戦では代打でサヨナラスリーランを放ち、初めてお立ち台に上がった。
2008年からは、打撃を生かすために外野手登録。しかし、同年には、西武から和田一浩が移籍。2010年には、同い年で同郷の大島洋平(享栄高→駒澤大→日本生命→2009年ドラフト5巡目)が一軍定着。2005年秋のドラフト1巡目指名を受けた超高校級スラッガー・平田良介の台頭もあり、ポジションを奪うことはできなかった。
中日に在籍した11年間で一軍出場305試合。2014年10月、戦力外通告。「野球人として、人として、成長させてもらいました」と感謝の言葉を述べて退団した。
強打の外野手・堂上に声をかけたのは、巨人だった。育成選手としての契約だったが、春季キャンプは一軍帯同。練習、紅白戦、オープン戦とアピールを続け、2月23日、支配下登録を勝ち取った。5月12日に一軍初昇格。22日の中日戦では7番・レフトでスタメン出場を果たしたが、古巣相手に「一発かまそうという邪念がありました」と気合が空回りして3打数無安打。しかし、再昇格した6月11日に前述の大爆発となったのだから、実力は十分ということだ。
巨人外野陣のポジション争いも当然のことながら厳しく、交流戦終了時点で12試合出場にとどまる。それでも11年間、いや、幼い頃から重ねてきた練習が実を結ぶ日を信じて、堂上剛裕は努力をおこたることはないだろう。30歳で花開く大砲を、今季、ぜひ目の当たりにしたい。
文=平田美穂(ひらた・みほ)