横浜・長嶋監督実現せず…
横浜DeNAの新監督にラミレスが就任した。前監督の中畑清はペナントレース後半に失速して親会社の残留要請にも関わらず責任をとって辞任。だが、若手選手の積極起用で来季以降の戦う陣容は整いつつある。そして、何より大きいのは観客動員の飛躍的な伸びである。前半戦の健闘やフロントの努力も見逃せないが中畑の明るいキャラクターが貢献したのは言うまでもない。こうした延長線上にラミレス抜擢も考えられたはずだ。
高田GMと吉田スカウト部長が元V9巨人の戦士なら中畑、ラミレスも元巨人組。人的には近年、とみに蜜月関係の続く両球団だが30年ほど前には「超大物」を巡って激しい綱引きが繰り広げられたことがある。いわゆる長嶋招請事件だ。
今でこそ巨人の終身名誉監督として古巣に変わらぬ愛を注ぐ長嶋だが、1980年の第1次政権を成績不振の理由で解任されたあとは実に13年に及ぶ「浪人時代」が続く。これだけの大物にして人気ナンバーワンのミスタープロ野球。しかも、解任の背景を巡っては球団内に影響力を残すV9総帥・川上哲治派との暗闘も囁かれていた。長嶋獲得に「脈あり」とする数球団の中でも特に熱心だったのが横浜だった。
82年、新監督に関根潤三(現野球評論家)を迎えると動きが慌ただしくなった。関根は長嶋が監督時代にヘッドコーチを務め、グラウンド外でも親交のあったバリバリの長嶋人脈。しかも就任当時から「ミスターが来てくれるなら私は喜んで身を退くよ」と公言する。さらに当時の親会社である大洋漁業でも球団社長に本社の総務部長を派遣するなど組織強化に本腰を入れてきた。地元・横浜まで青年商工会議所を中心に長嶋招請の署名活動を展開した。すべては長嶋を横浜に迎え入れるための環境づくりである。
こうなると、担当記者も試合より長嶋問題一色だ。シーズン中の本拠地では午後2時頃から練習が始まりナイターの場合、試合後に原稿を書き上げて11時近くに帰宅の途につくのが通常パターン。しかし、当時の番記者は昼間から東京・大手町にある大洋の本社に張り付き、球場や球団事務所に顔を出すと夕方からは再び都内の料亭に向かう。中部藤次郎本社社長に交渉の進展具合や発言を聞き出すため。肝心の球場に番記者の姿はなく、その日の野球原稿は通信社任せが実情だった。
結果的に長嶋招請は実現しなかった。長嶋、関根とも近い関係にあり両者の伝達役になった民放ラジオ局の元アナウンサーF氏に聞いたことがある。
「大洋本社の親書は長嶋家に届いていた。いい線までいったことは確か」
ここから先は私的な感触だが、長嶋本人はユニフォーム復帰に前向きになった時もある。だが、亜希子夫人は強く反対し、巨人も他球団への流失を嫌った。
様々な要因が複雑に絡み合い球界を揺るがす問題は幻に終わった。長い雌伏の時を経て巨人の監督に復帰したのは93年のこと。第1次、第2次政権合わせて15年に及ぶ監督生活で日本一2度、リーグ優勝5度にBクラスは3度。もう本人の口から当時の真相が語られることはない。(敬省略)
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)