巨人・原辰徳、阪神・和田豊、DeNA・中畑清に楽天・大久保博元。野球界の顔でもあった指揮官たちが去り、新たな監督が誕生する。勝負の世界では人の移り変わりも速く激しい。約40年にわたり球界を見てきた者にとって忘れ得ぬ事件、人模様、衝撃の出来事などを5回にわたり振り返ってみたい。第1回は「黒い霧事件と東尾修」のドラマである。
今年のプロ野球界に暗い影を落としているのは巨人の福田、笠原、松本竜3投手らによる「野球賭博事件」だ。知人の誘いに乗り高校野球からプロ野球の試合に金銭を賭ける。その先には暴力団のからむ八百長行為まで及びかねない言語道断の行為。単なる軽率で済まされる話ではない。この問題は球界全体の事としてコミッショナーの下で調査委員会が設けられ警察まで捜査に乗り出している。この際、徹底的に膿みは出し切る覚悟が必要だろう。
今から46年ほど前に野球界は存続すら危ぶまれる大激震に見舞われた。1969年に発覚した「黒い霧事件」だ。当時の西鉄ライオンズ(現西武の前身)を中心に暴力団関係者と一部選手が接触。金銭と引き換えに試合に負ける。敗退行為、イコール八百長である。当初は永易将之投手が主犯格でシーズンオフに解雇されるが、その後コミッショナーで調査を開始すると広範囲な事件と判明。国会でも取り上げられるにいたり池永、与田、益田ら西鉄投手の事件の関与ばかりか、新たに中日の小川らはボートレースの八百長にまで手を伸ばし翌年には永久追放の処分が下された。
しかし、本稿の主役は「黒い霧」の向こう側で思わぬ幸運を手にする。東尾修だ。大事件の1年前にドラフト1位で西鉄に入団。彼が最初に目にしたのは絶望的な光景だった。池永や与田らエースの投球を目の当たりにするや和歌山・箕島高校からやってきた18歳はすぐに自信を失う。早くも首脳陣に野手転向を申し入れた。ところが、その直後に球団と球界を揺るがす八百長事件が起こったことで西鉄の投手陣は壊滅的な状況に陥る。自信も能力も関係ない。今いる戦力で戦うしかなくなったのだ。
1年目は0勝2敗。以下、11勝18敗。8勝16敗。18勝25敗。入団4年間では37勝61敗の成績だ。つまり、打たれようが、負けようが東尾は投げ続けた。続けなければならなかった。すると、徐々に投球術を覚え、勝利のコツをつかんでいったのだ。東尾と言えば右打者の胸元をえぐるカミソリシュートと外角へのスライダーが生命線だった。
「自分のストレートは全盛期でも142、3キロ。この世界で生きていくためには人より工夫が必要だった」と言う。
「黒い霧」によって西鉄は球団経営が逼迫、その後太平洋クラブ、クラウンライターと親会社は変わるも約10年後には西武ライオンズとして九州の地を離れて行く。しかし、エースに成長した東尾は常にライオンズの顔として野球人生を全うした。生涯通算251勝247敗23セーブ。あの事件がなければ200勝投手は誕生していなかっただろう。
「自分の野球人生における最大のチャンスにしてターニングポイントだった」
これを単なる強運で片づけるにはあまりに重い歴史である。(敬称略)
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)
今年のプロ野球界に暗い影を落としているのは巨人の福田、笠原、松本竜3投手らによる「野球賭博事件」だ。知人の誘いに乗り高校野球からプロ野球の試合に金銭を賭ける。その先には暴力団のからむ八百長行為まで及びかねない言語道断の行為。単なる軽率で済まされる話ではない。この問題は球界全体の事としてコミッショナーの下で調査委員会が設けられ警察まで捜査に乗り出している。この際、徹底的に膿みは出し切る覚悟が必要だろう。
今から46年ほど前に野球界は存続すら危ぶまれる大激震に見舞われた。1969年に発覚した「黒い霧事件」だ。当時の西鉄ライオンズ(現西武の前身)を中心に暴力団関係者と一部選手が接触。金銭と引き換えに試合に負ける。敗退行為、イコール八百長である。当初は永易将之投手が主犯格でシーズンオフに解雇されるが、その後コミッショナーで調査を開始すると広範囲な事件と判明。国会でも取り上げられるにいたり池永、与田、益田ら西鉄投手の事件の関与ばかりか、新たに中日の小川らはボートレースの八百長にまで手を伸ばし翌年には永久追放の処分が下された。
しかし、本稿の主役は「黒い霧」の向こう側で思わぬ幸運を手にする。東尾修だ。大事件の1年前にドラフト1位で西鉄に入団。彼が最初に目にしたのは絶望的な光景だった。池永や与田らエースの投球を目の当たりにするや和歌山・箕島高校からやってきた18歳はすぐに自信を失う。早くも首脳陣に野手転向を申し入れた。ところが、その直後に球団と球界を揺るがす八百長事件が起こったことで西鉄の投手陣は壊滅的な状況に陥る。自信も能力も関係ない。今いる戦力で戦うしかなくなったのだ。
1年目は0勝2敗。以下、11勝18敗。8勝16敗。18勝25敗。入団4年間では37勝61敗の成績だ。つまり、打たれようが、負けようが東尾は投げ続けた。続けなければならなかった。すると、徐々に投球術を覚え、勝利のコツをつかんでいったのだ。東尾と言えば右打者の胸元をえぐるカミソリシュートと外角へのスライダーが生命線だった。
「自分のストレートは全盛期でも142、3キロ。この世界で生きていくためには人より工夫が必要だった」と言う。
「黒い霧」によって西鉄は球団経営が逼迫、その後太平洋クラブ、クラウンライターと親会社は変わるも約10年後には西武ライオンズとして九州の地を離れて行く。しかし、エースに成長した東尾は常にライオンズの顔として野球人生を全うした。生涯通算251勝247敗23セーブ。あの事件がなければ200勝投手は誕生していなかっただろう。
「自分の野球人生における最大のチャンスにしてターニングポイントだった」
これを単なる強運で片づけるにはあまりに重い歴史である。(敬称略)
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)