コラム

「忘れてはいけない日」を胸に、20年ぶりの日本一へ…オリックス・福良淳一監督

職人肌の名脇役

 
 ひと言で言えば“地味”…。福良淳一、現役時代は職人肌のプロ野球選手だった。

 阪急からオリックスに球団名が変わったころの時代を支えた名二塁手。犠打がうまく、死球も多く稼いだ(1986年は15個、87年は12個で死球王)。

 打撃もシュアで、打率3割達成が3度。特に88年は最後まで首位打者争いを演じたものの、10月に左肩を脱臼したため戦線を離脱。打率.320でリーグ3位に終わった。

 昨年シーズン途中の6月、チーム成績不振のため休養した森脇浩司監督に代わって監督代行となった。引き継いで以降の90試合は42勝46敗2分。決して満足のいく数字ではないが、それでもオリックスは、「福良監督」を正式に誕生させた。

 現役時代には派手な活躍もなかった福良だが、どうして指揮官になれたのだろうか。


選手の心に響く“真面目さ”


 大きな理由の一つが、「選手育成」だろう。

 日本ハムのニ軍守備走塁コーチ時代、当時まだ頭角を現さなかった田中賢介を育て上げ、一軍に昇格させた。

 プレッシャーに弱かった田中に、「優勝がかかる大一番で、最後の打者の打球が飛んできたときに、どう処理するか」をテーマに、毎日同じ練習を繰り返させたという。つまり、これ以上ないくらい丁寧にボールを捕り、これ以上ないくらい丁寧に一塁手のミットめがけて投げる…。この繰り返し。この練習のおかげで、田中はプレッシャーに強い選手に成長。守備だけでなく打撃でも開眼したという。

 一事が万事。福良監督の野球に対する姿勢、真面目さが、選手の心にも響く。そこに信頼感が生まれるのだ。

 オリックスでの現役時代、95~96年のリーグ連覇に貢献した。当時のチームメートで中心選手に成長したイチローは、「福良さんのように、全ての試合で必要とされる選手になりたい」と尊敬の念を抱いたという。


「忘れてはいけない日」を胸に、20年ぶりの日本一をめざす


 そして95年1月17日、福良にとって忘れられない出来事が起きた。阪神淡路大震災だ。

 神戸市垂水区の自宅で被災した福良は当時を振り返り、「野球をやっていいのか、野球をやれるのか、続けられるのか...」と真剣に悩んだという。

 それでも、実家の宮崎に帰って自主トレを敢行。『がんばろう神戸』を合言葉にイチローらと共闘し、球団がオリックスになってから初めてとなる優勝を飾った。

 「忘れてはいけない日」と、今年の1月17日には自主トレ中の選手らと本拠地の神戸に集まり、黙祷を捧げた。あれから21年…。福良は現役を引退し、オリックスの監督に就任した。そしてイチローは、バリバリのメジャーリーガーとして活躍している。このことを当時の誰が想像できただろうか。

 96年のリーグ優勝(日本一)以来、優勝から遠ざかっているオリックスであるが、今季から代行ではなく、正式に指揮官となった福良監督に強力な援軍がついた。

 現役時代にロッテで首位打者を獲得し、2010年にロッテの監督就任。1年目でリーグ3位ながらクライマックスシリーズを制し、日本一に輝くという史上最大の下克上を達成した西村徳文氏がヘッドコーチとしてオリックスに入閣したのだ。

 福良&西村という、コアなプロ野球ファンなら大喜びするほどの戦略家コンビ。一体どんな野球を見せてくれるのか、今から楽しみだ。

 20年前のオリックスの優勝時、選手として美酒に酔った福良が、今度は監督としてリーグ制覇に挑戦する。「野球を続けていて、よかった」と福良監督が思える日が来ることを信じたい。
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